立教新座中学校・高等学校

学校長あいさつ(高等学校卒業式式辞)

2012.03.17

立教新座高等学校 卒業式 式辞

 祝意を込めて、諸君にムラサキケマンの花を贈ります。
ケマンは、花飾りです。日本でも、タンポポの花などを編み首にかけたりしますが、インドでは生花を編んで大きな花輪にし、仏像の首や腕に掛けるそうです。紫色の野草、ムラサキケマンです。
 4月から6月頃まで、山野にもよく見られますが、キャンパスでも見つけることが出来ます。先日、ラジオを聞いていたら、女性のアナウンサーがこの花のことを紹介して、「私はまだ見たことがありませんが・・」と話していましたから、それほどよく知られた花ではありません。初めて聞いた人が多いかもしれません。雑草です。
 枯れたような茶色っぽい葉を地面に平らに広げて冬を越すそうですが、私は意識したことはありません。きっと何気なしに踏みつけていたに違いありません。春になると、勢いよく30センチほどに成長します。茎は太くやわらかです。ちょっと強い雨が降ると茎はたやすく倒れます。それでも又太陽がさしはじめるとすぐに元にもどります。日本全国に分布しています。
 紫ではなく黄色のケマンもあります。崖の土の崩れているようなところに咲きます。瓦礫のようなゴミ捨て場のようなところでも大きくなります。震災の後、テレビ画面に映った花はこの花だったように思います。一本では弱い花ですが、仲間がいるとすぐに立ち上がる花です。ムラサキケマンの花言葉は「あなたの助けになる」です。
 雑草と呼ばれる花の名を覚えてください。
 芭蕉にナズナをよんだ次の句があります。

    古畑にナズナ摘み行く男ども

 ナズナは、諸君もよく知っているかもしれません。ぺんぺん草です。春浅くまだ冷たい風が吹くころから、3ミリくらいの白い小さな花をつけます。
 正月の七草粥に入れるナズナの若葉を男たちが畑に取りに行ったのでしょう。古畑は、冬の間のまだ耕していない畑です。この句の眼点は、「摘み行く」とした、雅な表現にあります。武骨な男たちが、愛する者たちの健やかな年の始まりを祈り、古畑へその食膳のためにナズナを摘みに行ったのです。やさしき、優美な男たちです。
 英国紳士の不可欠な条件は花の名を知っていることだそうです。云うまでもありますまい。紳士は、ジェントルマンです。やさしい男たちのことです。やさしさの語源は、「痩せし」です。自らの身を削り「痩せた身」になって相手に接することです。過剰な豊かさ、身に余る贅沢はやさしさを生み出しません。
 花を知ることは、自然の持つ心を知ることです。
 雑草にもかけがえない名前があります。その一つでも知ってください。精一杯咲いている雑草の花の名を知ろうとするやさしい男になってください。 

       *

 「野原の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」(ルカによる福音書12章27節~28節)

       *

 2012年3月であることの意味を考え、ムラサキケマンの花言葉とともに一言加えます。
 一年前の未曾有の震災の悲劇は、私たちに命の重みを、激しく強く問い質しました。
 私は、生徒諸君・保護者各位・教職員そして今日ここに列席されたすべての人と共に、今ある存在の重みに感謝したいと思います。今この時を幸運と呼ぶのは、あまりに傲慢かもしれません。不遜かもしれません。しかし、今私たちに出来ることは、悲劇の爆風の隙間に放され、我が身の胸に突き刺された偶然の矢を心の中に刻むことです。存在の重みを感謝の弓につがえて、明日に向かって欲しいと切望します。
 日曜日、私は福島県いわき市久の浜での花供養に参加しました。
 久の浜は、昨年の終業式の後、君たちの仲間と一緒に行ったところです。
 久の浜は、地震後に起きた火災、その火を飲み込んだ津波。そして、海に運ばれた火の粉が、戻り波に運ばれ、海岸一帯を火災に巻き込んだ所です。電源を失ない消火活動も出来ないまま、一晩燃え続けました。死者・行方不明は70名を越えました。そして福島原子力発電所から30キロ圏内であったこの町に屋内退避命令が敷かれました。(4月21日解除)
 地震・津波・火災・放射能汚染。三重苦、四重苦の悲劇がこの町を襲ったのです。
 波打ち際に多くの花が飾られました。花は波にもまれてすぐに見えなくなりました。14時46分。海に向かって黙祷をささげる人々。波間の花にたわむれる幼子の小さな手。祈りに背を向け、黙々とカモメにパンくずをやる老人。群れるカモメの声が今も聞こえます。
 19世紀アメリカの代表的詩人ホイットマンは、
 「私は感知する、「自然」がこの海の見えるところで、私を欺き、私に打ちかかり、私を刺すのを。なぜなら、わたしはたいそう僭越に振る舞って来たから。・・・・二つの海原よ。触知しうる陸地よ!「自然」よ!あまり手荒い仕打ちはしないで欲しい。-あなたに従うから-あなたのそばに寄り添うから」と記しています。
 私たちは、自然に対して僭越に、傲慢になり過ぎたのではないでしょうか。
 自然からの手荒い報復にこうべを垂れ、その恵みを懇願し、自然に従い、寄り添うことが要求されているのです。
 一年前、卒業式を挙行することの出来なかった時、私は本校のホームページで、「時に海を見よ」と題し、大学に行き、海を見つめる自由の中で孤独を直視せよと語りました。その思いに変わりはありませんが、今の私は、この一年の短さと長さに翻弄され、時間に性急になっているかもしれません。
 「海を感じよ」という声が聞こえてならないのです。
 海を感知し、触知し、海に従い、自然に寄り添わねばなりません。
 波に抱かれ。海藻とたわむれ。波頭をまっすぐに見つめ、その鼻で潮の匂いをかぎ、海の音に耳をそばだて、海の闇を感じ、そして日の出を直視してください。
 五感を震わせて海を感じて下さい。敗北の意味が、問われるはずです。
 次の時代へ、今の海を語り継がねばなりません。
 これは責務です。
 多くの人と出会い、身が細るほど相手の身になって物事を考えてください。他人と不幸を分かち合える。そんな人間になってください。今、悲劇は一部に集中しています。がれきの処理は、国民すべてが、その身に引き受けなければなりません。分かち合うことが必要とされているのです。
 自然と歩む新たな理念が若い君たちの中から創出されるはずです。理想の社会が、きっと見えて来るはずです。描けるはずです。
 相手の気持ちに寄り添い、感情を同化させる心の揺らめきを、私たちは「あわれ」と呼びます。日本人が培ってきたこの美的表現が生んだ言葉が「あっぱれ」です。「あはれ」を促音化し、意味を強めたものが「あっぱれ」です。
 あっぱれは、「あわれ」知る男への絶賛です。勝負に勝った男たちへの賞賛のみを云うのではありません。否。負け戦さの中にもいたわりを忘れず、愛する者への「やさしさ」を忘れず、花をたずさえ、相手への感情と限りなく同化しながら通い戸を開く男たちの心です。
 今旅立ち、紳士の道を歩まんとする男たちよ。真っ正直に、貧しさを恐れず、貧しさに勝る精神の豊かさを持ち、紳士道を歩んでください。誰よりも「あわれ」知り、今悲しみにある者に寄り添い、手を差出し、一歩踏み出す勇気を持ち、瓦礫の中にもムラサキケマンの花を探し求めてください。

 諸君。我が立教新座<アッパレ>の同志よ。卒業おめでとう。

立教新座高等学校 校長 渡辺憲司

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