2021/02/15 (MON)

チャプレンより聖書のことば

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
(マルコによる福音書第9章2~4節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
聖書では「生ける神」という言葉があります。そして、聖書が語っている神は命の源であり、人間が死んだとしても蘇らせることができるお方です。イエス・キリストはその神をわたしたちに現すために来られました。そして、イエスは、復活のことを弟子たちに伝えるために、イエスの生きていた1500年ほど前にエジプトからイスラエルの民を連れ出したモーセ、そしてイエスが生きていた800年以上前に生まれたエリヤと会談をしました。そこで、イエスは自分も復活することを弟子たちに伝えますが、弟子たちはなかなか信じません。

イエスだけではなく、モーセやエリヤも命と復活の神を信じていました。エリヤは列王記17章で、すでに死んでいたやもめの息子を生き返らせます。エリヤは神が生ける神である信仰をもとに、神に祈り、子どもを生き返らせます。モーセの律法ではエリヤの話のように直接復活に触れることはありませんが、モーセが定めた礼拝のすべては、もっと素晴らしい天にある礼拝(神と人間が交わる場)を指しています。

すべては死で終わると考える人は多くいます。確かに、わたしたちの今見えるものだけで判断すれば、それは妥当な考えです。しかし、だからこそ、イエスは弟子たちを連れて高い山に登り、復活をされたモーセとエリヤの姿、そして自分の栄光ある姿を見せました。そして、自分が復活するまで誰にも話さないように命じますが、イエスの復活を自分たちの目で見た弟子たちはその後、このことを思い出して、復活の信仰が一層深まりました。

イエス・キリストにあって復活を信じるものは、この世のすべての悪と病と苦しみから、神は救いの道を備えておられることを信じています。この救いの道を歩むか歩まないかはわたしたちの自由ですが、他に復活と救いと命の道がどこにあるかを考えなければなりません。そして、わたしたちが命を選び、永遠の命を信じないのであれば、必然的に死が勝利することを信じるようになるのではないでしょうか。


2021年2月15日

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