2021/04/19 (MON)

チャプレンより聖書のことば

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
(ルカによる福音書第24章45~48節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
今週の聖書において最も大切な所は、最後にイエス様がおっしゃった、「あなたがたはこれらのことの証人なる」という所であると思います。あなたがたと言うのはここにいるあなたがた、すなわち私たちのことです。では「これらのこと」とはどういうことかということを思いめぐらしていきたいと思います。

それは、真っ暗闇の中に光が差してくることであると思います。「もう駄目だ」というピンチの時に「いや、まだ大丈夫」ということです。人生には「もうおしまいだ」と思うようなピンチのときがたくさんあって絶望したり投げ出したりしますけれど、立教新座中高に集まった私たちはそういう絶望と決定的に違います。イエス様の復活、この世界の復活、その証人であるからです。今日の聖書はエマオに逃げようと思っていた弟子達が、エルサレムに戻ってきた時の話です。彼らは絶望して、もう全て終わってしまったとがっかりしてエルサレムを離れていきました。その闇にイエス様が寄り添って一緒に歩いて、この弟子達はまた暴力と憎悪の渦巻く大変な現場エルサレムへと戻ります。今週の福音書の箇所は何か、平和な雰囲気がありますけれども、周りの状況は決して、そうではなくて、暴力と憎悪の渦巻く大変な現場であるエルサレムに戻ってきた直後ですから、ピンチの連続であったと思います。それでも、なにか平和な感じに思えるのは、弟子たちの心持ちが平和であったからです。このイエス様が「あなたがたに平和があるように」といって弟子たちのところに来てくださった。これを美しい日本語一言で表現するなら「同伴者」ということになります。同伴者。一緒に歩んでくれる人。共にあって全てを一緒に背負ってくれる人。この同伴者の存在がこの世界に必要です。私たちが復活の証人となるということは、まずはイエスが私たちと共に歩んでくれて、心の目を開いてくれて、私たちのうちに光を注いでくれたこと、すなわち私たちの同伴者であるイエス様を信頼して、私たちもまた誰かにそのイエス様を伝え、さらに私たち自身が誰かの同伴者となるということです。そのためには、まずは同伴者が共に歩んでいることに気付かなければなりません。

立教新座中学校・高等学校において、どうぞ信頼され、信頼する仲間を増やしていってください。あなたの「同伴者」となるお友達がきっと見つかります。そんなことあるのか、ということですけれども、私はあると思っています。なぜなら、私たちはイエスが共に歩んでいてくれていることから大きな力、その信頼を頂いているからです。ですから、今度はもう一人の誰かの同伴者になる、そのような使命を皆様もぜひ生きてほしいと思います。そんなことを思っていると、逆に「同伴者」が現れてきます。まだまだ新型コロナウイルスの猛威が振るっていますが、この困難な時を乗り越えていくのはそのように共に歩む忍耐力、あきらめずに一緒に歩み続ける愛しかないと思います。

2021年4月19日

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