2022/02/07 (MON)

チャプレンより聖書のことば

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
(コリントの信徒への手紙一第15章3~10節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
使徒パウロはコリントの信徒への手紙の最後で、とても簡潔にイエスの福音をまとめています。イエス・キリストの福音は十字架と復活を中心とするものです。福音を人々に伝えるということは、この十字架と復活が真実であることを人々に伝えることです。

十字架によってわたしたちの罪がイエスによって贖われたということは、人間にとって思う以上に大切なことです。多くの人間は年をとればとるほど何らかの罪悪感を持って生きることになります。わたしたちが人を傷つけるとき、家族や自分にとって大切な人であることが多く、また、年をとればとるほど、どんなに成功している人でも失敗や間違いを重ねることになります。時には、望んでいなくても敵を作ることもあります。誰かに赦されていないということを知っていながら生きて行くことは精神的に辛いことですし、それ以上に誰かを赦せない気持ちでいることも辛いのです。十字架の道というのは決して楽な道ではありませんが、イエス・キリストによって唯一の神に自分の罪を赦される道であり、すべての人間を支配する神に赦された人として他人を赦す人へと変えられる道であります。

しかし、罪に満ちた世界に生きることはこの世界の罪に汚れることだけでなく、罪の結果として死ぬことでもあります。(ユダヤ教・キリスト教では人間が神に息を吹き入れられ、神の似姿となり永遠の魂を受けた時から永遠に生きるための動物となったと考えられています。)聖書は、人間には罪と死からの救いがあることをイエス・キリストの復活を通してわたしたちに伝えています。復活がなければ、罪を赦されたとしても、また罪を犯し、また赦されなければならない人生になるだけです。復活を通じて罪の赦されたものは、この世の悪を離れ、神の国で罪のない世界で本来あるべき者として生きていくことができるのです。わたしたちが持つ殆どの能力と可能性は、この人生で発揮することができないまま終わってしまうのですが、神の国で永遠に生きることによって、私たちに秘められた無限の可能性と無限の愛を発揮できる命が与えられるのです。

2022年2月7日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。