2025/12/01 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ
 あなたはユダの指導者たちの中で
 決して最も小さな者ではない。
 あなたから一人の指導者が現れ
 私の民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
(マタイによる福音書第2章1~11節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤 一太郎
東方の博士たちがベツレヘムを訪問し、生まれたばかりの赤子を拝む。降誕劇のクライマックスシーンに必ずと言って良いほどに取り上げられる出来事ですが、このシーンが奇跡の出来事と言われれば疑問を感じる人も多いのではないでしょうか。星に導かれて神が約束された生まれたばかりの救い主を拝みに遠い地からやってくる人がいたと聞けば、凄い人たちがいたものだと感心はするでしょうが、奇跡の要素を読み取ることは困難です。

ですが、この出来事を現代社会の視点で見直してみれば如何でしょうか。ヨルダン川の東沿岸に住むアラブ人がイスラエルの田舎にユダヤ人の赤子を拝みに到来し、生まれたばかりの赤子のすぐ傍に招き入れられるなど、「あり得ない」と言いたくなる出来事なのだと気付かされます。それこそ私たちの身近に置き換えても、見知らぬ異国人が自分の家に「赤ちゃんに会わせてくれ」と押しかけたら私たちの対応は「警察を呼べ」でしょう。

何時の時代、何処の地でも見知らぬ人が子供に会わせろと突然押しかければその対応は似たものとなるでしょうし、先祖代々の仇敵の間柄にあればもっと敵対的なものとなって不思議ではありません。ですがイエスの誕生の時にはそうはならなかった。ベツレヘムの人々は家を訪ねる博士たちを妨害せず、家の人も赤子の傍に近づくことを許しています。

古代においても現代においてもあり得ない奇跡、仇敵同士が一つ所に集い、赤子の誕生を祝うという平和の出来事が実現したのです。これは救い主の誕生が発端であるものの、無力な赤子の救い主が為したことではありません。人間が成し遂げた平和の奇跡なのです。

やろうと思えば人間にはできる、やる前から無理だと思って諦めるな。平和は人間の手で実現できるということを教えるために、神は御子を無力な赤子として世に遣わされたのです。


2025年12月1日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。