2026/05/11 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」
(ヨハネによる福音書第15章1~6節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤 一太郎
地中海周辺地域で重要な作物である麦は、種麦を蒔いて芽が出た土地をすべて畑にするほど人々は麦畑を広げたいと願ったようですが、それでも急な斜面の土地や砂利が多く保水力がない土地など、麦畑に適さない土地がどうしても存在します。ですがぶどうは、そのような麦には悪条件な土地でも育ちますし、日照や寒暖の差などの気象条件が合えば良い実を結びます。そしてぶどうの実は生食だけでなく干しぶどうやジュース、ワインに加工できます。古代の人々にとって憧れの甘味となっただけでなく、辛い労働に明け暮れる日々の生活に活力を与えてくれるエナジー飲料にもなるぶどうは、ギリシア神話にも見られるように神の恵みを具現するような果実でありました。

旧約聖書では人間の生きる世界を神が整備されたぶどう園、そこに生きる人間をぶどうの実にたとえており、イエスは農夫である神の手入れによって育ち実るぶどうの実の在り方を、神と人間の関係性の正しい姿としてたとえを通して語られています。良い実を結ばない枝は取り除かれるという衝撃的な一文は警句としては効果的かもしれませんが、自分が良い実だと胸を張って主張できる人がどれだけいるでしょう。自分は取り除かれる実だと悲嘆する人の方が多いのではと考えます。現実のぶどう栽培であれば農園主や労働者は病気や害虫を防ぐために枝を剪定して風通しを良くし、実を大きくするために容赦なく余計と判断した実を切り捨てます。ですが神のぶどう園であるこの世界では実を結びさえすれば取り除かれることはないのだとイエスは希望を与えて下さっているのです。実際のぶどう栽培の現場では、ぶどう園で働く人々は毎日休むことなくぶどうに関わり続けます。農夫である神は毎日休むことなくぶどうの実である私たちを見守り関り続けて下さっています。ぶどうの実が枝先に結実するように、私たちもイエスと繋がることによって生きています。大事なことは枝の先に結実する実は一つではなく沢山の実があるということ、神から命を与えられた沢山の人がイエスによって繋がっていることです。
イエスと繋がるということは、自分とイエスが繋がるだけではなく、他者とも繋がることを求められていることです。人は自分だけでは生きることは出来ません。神が出会わせて下さる沢山の人と繋がり、喜びや苦しみを分かち合う交わりを重ねることで神の恵みを実感できるのです。

2026年5月11日

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