2020/05/11 (MON)

チャプレンより聖書のことば

トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」
(ヨハネによる福音書第14章5-6節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
いまこの新型コロナウイルスの試練のなかにあって、特に外出自粛が長丁場になると聞いて、暗い顔をしておられる方もいらっしゃいます。私も、鏡を見るときなど、なんと暗い顔をしているんだろうと思うことがあります。確かに外出を自粛しながら生きていくことは大変なことですけれども、信じたいのは今日ここに救いの道があるという私たちの信頼が私たちを救うということです。トマスは「どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言います。この気持ちはよく分かります。辛いとき、「神様は本当におられるのか」と私達は思います。するとイエス様は「こんなに見えているのに、こんなに神様のわざが溢れているのになぜ分からないのか」と言います。たとえるならば誰かに向かって「いま、学校はどこにあるんですか」と聞いているようなものです。学校は私たち一人一人のうちにあるということ、離れていても心は一つになれるという現実、それを感じた者はもはや学校を感じ、そして神様も感じることができるのではないかと思います。私たち一人一人がイエス様と一つになって「私は道だ、私は真理だ、私は命だ」と言うのが復活であり、これに信頼して集まる群れである学校そのものが、目に見えるイエス様となって大きなわざを行っているのです。救いは見えます。救いは私たち自身だからです。非常にシンプルなことです。

今日から当分の間、月曜日の8時20分からライブで「朝の礼拝」を行います。校長先生がお話をされ、お祈りのときを持ちます。「お祈りに意味があるのか」なんてトマスのような疑問を感じるかもしれませんが、イエス様が語られた「わたしは道である」という言葉を思い出してみたいと思います。道というのは、基本的に誰もが自由にはいることができるところであるということです。すなわち、道は、誰をも受け入れていくことを意味します。イエス様が十字架につけられるとき、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」と自分を十字架につけた人々のために祈られました。まさに、イエス様は道であるということ、どんな人をも受け入れられる道のような方を示す祈りです。だから祈りには力があります。私達の神様に対する祈りは、私達がそれ自体一人一人であることを超えて、より大きな何ものかと一つになっていくことであるからです。

祈りを通して、自分自身の良いところも悪いところも、神様はそれを知っていて、そんな私でも受け入れてくださるということを知ることは、他の人の、それが自分の敵であったとしても、その人の良いところも悪いところも、神様はそれを知っていて、その人も受け入れてくださるということです。この神様の無条件の愛、究極の愛によって、私達は、神様のもとで一つになっていくことができることを示しています。ということは、もし、いま、私たちが、誰かのために祈れなくても、道であるイエス様が私たちの内におられるのですから、誰かのために祈ることができるのです。このことに信頼して、月曜日だけでなく、日常のなかに、お祈りのとき、神様と交わるときをもって、共に歩んでいきたいと思います。

2020年5月11日

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