わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
(ヨハネによる福音書第15章12~15節)
立教新座中学校・高等学校チャプレン 藤田 誠
イエスは十字架に付けられる前、弟子達に遺言を残しました。それは、冒頭の聖句に表れているように「互いに愛し合いなさい」ということ、そして、そのことを実行することによって弟子たちが「あなたがたはわたしの友である」と呼ばれるということです。
なぜ、人は互いに愛し合わなければならないのか? それは、人が神さまに似た者として神さまによって創られたからです。いかなる宗教でも神さまをリスペクトするということを、わたしたちは感覚として知っていると思います。そして、人を大切にするということを、倫理的にわたしたちは理解していることでしょう。しかし、キリスト教において、人が神さまに似た者として神さまに創られたゆえに互いに愛し合う、ということは、木の幹が根深く地中に張り巡らされているように、イエスの生きた時代のイスラエルの人々の共通理解でした。
しかし、イエスはここで新たなメッセージを弟子たちへ送ります。それは、師匠であるイエスが弟子たちの「友」になってくださるということです。かつて、イエスは神のことを「アッバ」(お父ちゃん)と呼びかけて祈りましたが、それに通ずるものがあります。弟子たちにとってこれは驚きのメッセージになったことでしょう。
これは、弟子たちがイエスのところへ自分たちの意志で行かなくとも、師匠であるイエスが弟子たちのところへ降りてきてくださるということです。何と心強いことでしょうか。実際、イエスの弟子たちはイエスが昇天した後、力強くイエス・キリストの復活を人々に証をしてゆきましたが、それは、たとえ姿は見えなくとも、いつも、「友」であるイエスが弟子たちの側にいたからなのでしょう。
弟子たちと同じように、わたしたちのところにもイエスは「友」として降りてきてくださいます。弟子たちのように、わたしたちも、イエスの姿は見えなくとも、「友」であるイエスのみ守りのもと、神さまに似た者として創られた隣の人に信頼を置けたらよいですね。
2025年7月7日
なぜ、人は互いに愛し合わなければならないのか? それは、人が神さまに似た者として神さまによって創られたからです。いかなる宗教でも神さまをリスペクトするということを、わたしたちは感覚として知っていると思います。そして、人を大切にするということを、倫理的にわたしたちは理解していることでしょう。しかし、キリスト教において、人が神さまに似た者として神さまに創られたゆえに互いに愛し合う、ということは、木の幹が根深く地中に張り巡らされているように、イエスの生きた時代のイスラエルの人々の共通理解でした。
しかし、イエスはここで新たなメッセージを弟子たちへ送ります。それは、師匠であるイエスが弟子たちの「友」になってくださるということです。かつて、イエスは神のことを「アッバ」(お父ちゃん)と呼びかけて祈りましたが、それに通ずるものがあります。弟子たちにとってこれは驚きのメッセージになったことでしょう。
これは、弟子たちがイエスのところへ自分たちの意志で行かなくとも、師匠であるイエスが弟子たちのところへ降りてきてくださるということです。何と心強いことでしょうか。実際、イエスの弟子たちはイエスが昇天した後、力強くイエス・キリストの復活を人々に証をしてゆきましたが、それは、たとえ姿は見えなくとも、いつも、「友」であるイエスが弟子たちの側にいたからなのでしょう。
弟子たちと同じように、わたしたちのところにもイエスは「友」として降りてきてくださいます。弟子たちのように、わたしたちも、イエスの姿は見えなくとも、「友」であるイエスのみ守りのもと、神さまに似た者として創られた隣の人に信頼を置けたらよいですね。
2025年7月7日
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