2020/06/29 (MON)

チャプレンより聖書のことば

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
(マタイによる福音書10章37-39節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
ここでイエスの言葉に戸惑う人も多々いると思います。キリスト教徒でも、この部分は極端すぎると考え、ほとんど無視する人もいます。冒頭の言葉の数行前にはこのように書いてあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」これはイエスの他の言葉と矛盾しているのではないか、と思う人もいます。イエスの言葉をどう理解すればいいのか、少し考えてみたいと思います。

人間の歴史を見れば、人間のもたらす平和というのは、多くの場合、ある特定の家族や部族が他の家族や部族を支配することによってつくり出されます。例えば、日本の歴史でいうと、戦国時代では、それぞれの国を治めていた家族があり、その家族が常に権力争いで戦争をしていた。最終的に関ケ原で勝利を得たのは徳川家とその側に付いた家です。そして、江戸時代というのは、徳川家とその側に付いた家が日本を治めた時代であり、その家の支配に反対することは許されなかったのです。今でも、「何よりも家族を大切に」と考える人も多くいます。どうしても、このような考え方はとても限られた、権力のある家族による「平和」をもたらすのです。

イエスが言いたいのは、家族を大切にしない、ということではありません。しかし、父と母「よりも」大切なものがなければ、この世界は家族や部族の争いで終わってしまいます。イエスがこの世において何をされたかと言いますと、新しい家族、血縁を超えた家族というのをつくり出したと言っても過言ではありません。イエスの建てた教会と言うのは、自分の十字架を背負って、イエスに付いていくことによって、神と人々のために自分を捧げる道であります。そして、その道は特定の家族や部族によるものではなく、全世界の人々に開かれた道であるからこそ、世界を平和へと導くことが可能になるのです。

冒頭の言葉を自分の人生でよく表した者の一人は、立教の創立者であるウィリアムズ主教です。彼は20代の時に、イエスの言葉に従い、中国へと向かい、そこで福音のための働きを始めました。その後、1859~1908年の間、日本にいました。その間に、彼は結婚をすることもなく、自分の収入を教会と学校の働きのために使い、アメリカにいた家族と殆ど会うことなく一生を過ごしました。イエスはこのように十字架を背負ってイエスに付いていくことを教えています。自分の家族だけではなく、家族ではない人、そして最終的には世界のどの人にも仕えることをしなければ、私たちの世界の問題に解決はないのではないでしょうか。

2020年6月29日

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