2020/07/06 (MON)

チャプレンより聖書のことば

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイによる福音書第11章28~30節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
「今、コロナに感染している人たちは、『夜の街』で遊んでいるような人々だから自業自得だ」というような世論があるようです。まさに律法主義的な考え方です。ルールによって、一見すると、わたしたちは守られますけれども、しかし、ルールの背景、ルールを守れないような状況に至るまでの苦しみ、悲しみまで、ルールは救うことはできません。ルールは「そんな悪いことをすると、もっと悪いことが起こるぞ」という脅しによって予防はできますけれども、根本的な解決はしません。イエス様は、このようなルールという、正しさ、正義、この正義に基づく罪の軛から解放して、主イエスの軛という負いやすい軛に付け替えられたいと思われたのです。言い替えれば、ルールによる罪の軛から愛の軛に替えたということができます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ということは、イエス様はどんな人でも無条件に愛していて、その人を生かし、立ち上がらせようとするということです。なぜ、イエス様の愛が、軛、すなわち、首をはさむようにして2本の木を取り付けられるようなものにたとえられるのでしょうか。それは、どんな人でも、すなわち、「わたしはイエスの愛なんて嫌だ、そんなものいらない、イエス様なんかあっちに行け」と言ったとしても、イエス様は、それでもその方を愛してくださるということです。嫌だ、あっち行けと人間が思ったとしても、神様はそんな思いを超えて、わたしたちを愛してくださいます。そして、その人々がより良い方向へと向かうようにと一生懸命働いておられます。イエス様の愛から決して離れることはできないから軛なのです。

ですから、イエス様から、「休ませてあげよう」って言われて、こころからほっとしていいのだと思います。「わたしなんかとても休ませてくれないだろう」と思う必要はないのです。しかも、「だれでもわたしのもとに来なさい。」と言われていますから、どうぞ、皆様迷わずイエス様のもとへ行ってください。一人ひとり、さまざまな重荷を負っています。わたしたちは、「休ませてあげよう」ってイエス様に言われて、心からほっとして、神様のみもとで本当に何の心配もない瞬間が来ます。そして、わたしたちは、愛の軛を負うことを確信できると思います。

2020年7月6日

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