2020/07/13 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスのたとえ話

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
イエスの教えには数多くのたとえ話が用いられています。マタイ13章1~23節でイエスは「種を蒔く人」のたとえをします。イエスは種を蒔くために畑に出て行く人が、四つの違う場所に種を落とすことについてのたとえ話をします。道端に落ちる種があり、それは鳥が食べてしまいます。石だらけで土の少ないところに落ちた種は日が昇ると焼けてしまい、根がないため枯れてしまいます。茨の間に落ちた種は茨が伸びて塞がれてしまいます。最後に、良い土地に落ちた種は百倍、六十倍、三十倍に実を結びます。イエスは19~23節でこのたとえ話を次のように説明しています。「誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

このたとえ話だけを読むと、イエスは福音を聞いた人がどのようにそれを受け止めるかということだけを考えているように感じてしまいます。そのことは重要ではありますが、このたとえ話と説明の間には10~17節で、イエスの弟子たちがなぜイエスがたとえ話を用いるかを問います。イエスの返事はあまり耳に優しい返事ではありません。ある人にはたとえ話を悟ることが許されていて、ある人にはそれが許されていないと答える。そして、悟ることのない人は「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」とイエスは言います。現代では、明白に説明することが良いとされることが多いのですが、イエスは決してそのように教えてはいませんでした。イエスのたとえ話の多くは解釈がしにくいので、自分の都合のいいように解釈をする人や教師が生じます。これもイエスの思い通りです。真理に対して心が閉ざされている人は、専門家であっても聖書の言葉を読んでもその意味を悟ることなく、自分の都合のいいように解釈をします。しかし、たとえ話にあった良い土地のように、心が真理に対して開かれた人は、専門家ではなくてもその真相を悟ることができます。

聖パウロの手紙にはこのような警告があります。「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方に逸れて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(IIテモテ4章3−4節)種を蒔く人のたとえも同じことを教えています。どんな土であろうと、種を蒔く人はその務めに忠実でなければなりませんし、人に聞きやすくなるために教えを変えてはなりません。心が閉ざされている人は悟ることがなく真理を知ることなく生涯を送ることになりますし、正しい教えを受け入れない人もいます。しかし、最終的には実を結ぶのは自分の都合によって変えることのない正しい教えのみであるとイエスは教えています。このたとえ話は、まずは種を蒔く人に関してのたとえであります。

2020年7月13日

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