2020/07/20 (MON)

チャプレンより聖書のことば

芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』
(マタイによる福音書第13章26~35節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
聖書の読み方にはコツがあります。聖書に出てくる登場人物や、たとえ話に出てくる人やものを、「これは私のことだ」って思うのがコツです。これは大事なコツですからよく覚えておきましょう。たとえば、今日のたとえ話を読みますと、良い麦と毒麦が出てきます。これを自分のことととらえて、神が悪を忍耐強く善に変えてくださることを信じて感謝しましょうというたとえです。この場合、もし、自分は良い麦で、毒麦をひとごとのように思っているとしたら、そこが問題です。つい、私たちは、いつの間にか自分を善人の側、良い麦の側において、神さまはあんな悪人にも雨を降らせてくださるのか、なんて優しいんだろうとか、神さまはあんな毒麦も抜かずにおいてくださるのか、なんて忍耐強いんだろう、などとひとごとのように思ってしまいがちですが、「私は毒麦だ」って気づかないと聖書は読めません。「私こそ悪人だ」と気づかないと、神さまの無限の優しさが身にしみて来ないということです。イエス様の十字架の意味は理解できません。どうでしょうか。わたしたちは、このたとえを聞いて、毒麦は自分のことだって思って聞いていましたでしょうか。「私のような毒麦を抜かずにちゃんととっておいてくださる神さま、ありがとう」と思えるかどうかは、とても大切なところです。逆に、「でも、そうは言ってもせめてあの毒麦くらいは抜いた方がいいんじゃないのか」とか、そう思うとしたらそれは非常に危険です。

確かに抜きたくなる毒がこの世にはいっぱいあります。それは事実です。しかし、あの人さえいなければとか、これだけはやっぱり邪魔だから排除しようとかいうことについては、どこまでも慎重に考え、まずは神のみ心を問うべきです。いろんな不都合なこと、目障りなこと、自分にとって不愉快なことはいっぱいあるけれども、それらを次々と抜いて快適な人生を生きましょうっていうのが人生の目的ではありません。神さまが最後に神の国を完成させる、それに協力することが人生の目的なのです。それに協力している時ならば、自分の中のさまざまな毒麦すらも、もしかすると意味あるものに思えてくるかもしれないのです。神がどれほど寛容に忍耐をもって全てを見守っておられることか、それを知らなければなりませんし、私たちも神様に倣って自分自身のことを、寛容をもって見守っていきたいと思います。

2020年7月20日