2025/06/02 (MON)

チャプレンより聖書のことば

神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
 (コリントの信徒への手紙Ⅰ第1章27~31節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 斎藤 徹
テストで良い点数を取った時、部活で良い成績を収めた時、人から「すごいね!」って言われた時、私たちは自分を誇らしく思います。しかし、それを私たちのすべて、私たちの土台にしていると、頑張っても思い通りの結果が出ない、何をやっても上手くいかない、そのような時に必要以上に落ち込んだり、自信を失って自分を責めたりします。

冒頭の聖書で、「誇る者は主を誇れ」とありますが、これは旧約聖書エレミヤ書9章22-23節の引用で、そこには知恵・力・富を誇ってはいけないと書かれています。今の私たちに当てはめて言えば、学力、運動能力、お金や名声を誇ってはならないとなるでしょうか。そうではなく、「神を知ること」を誇りなさいと聖書は伝えています。

私たちの本当の誇りとは、「あなたは大切な存在だ」と愛されていることを知り、「私は私であることが喜ばれている」と自らを肯定できることです。そしてそれが命の与え主である神を知るということでもあります。このことを私たちの「土台」として大切にしていたいのです。

失敗することがあっても、上手くいかないことがあっても、誰かに馬鹿にされるようなことがあっても、神はあなたの味方であり続けます。だから、他の誰かのようになる必要はなく、自分以外の自分になろうとする必要もありません。あなたはあなたでいてくれれば、それだけで尊く、愛されているのです。成功と思えるようなことも経験し、時にはつまずきや失敗も経験する。しかしそのことであなたという存在の大切さが上がったり下がったりするものではありません。そのような大切な私を生きているということを誇りにしていたいのです。

自分の力や成功だけにとらわれず、失敗や落胆の経験に振り回されず、いついかなる時にも「大切な私」を生きていることを喜びとし、感謝をもって日々を過ごしていくこと、それが「主を誇る」生き方の第一歩なのです。

2025年6月2日

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