2020/09/14 (MON)

チャプレンより聖書のことば

仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
(マタイによる福音書第18章29~30節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
マタイによる福音書18章でイエスはあるたとえを使って弟子たちに赦しについて教えます。ある労働者が自分の主人に1万タラントの借金をしていました。当時のお金では一生働いても返せない金額です。この借金を返せと言われたときに、その労働者は主人に待ってくれとひれ伏してしきりに願いました。そこで、主人は彼が返せないことを知っていたので、憐れんで借金を全額帳消しにしました。その後、労働者はそこを出ていったあと、彼に百デナリオン(3カ月分の給料)の借金をしていた別の人に借金を返すように言った。そこで、百デナリオンの借金をしていた男は同じようにひれ伏して、「待ってくれ」と頼みました。しかし、その労働者は憐れむことなく、彼を牢獄に入れた。そのことを知った主人は労働者をまた呼び出し、彼にこう言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(18章32~33節)。そして、主人は怒って労働者を牢役人に引き渡しました。

自分が赦されたにもかかわらず、同じような間違いをした他の人を赦したくない気持ちを、私自身も経験したことが何度かあります。傷つけられた時に、私たちは自分を守ることで精一杯になり、防御を張り、人を赦さないだけではなく、近づかせないこともあります。これはなによりも自分にとってのおもりとなります。しかし、イエスが教えようとしていることは赦すことの大切さだけではありません。ユダヤ教とキリスト教の神は悔い改める人(たとえ話では「待ってくれ」と頼む人)を憐れみ、罪を赦す神です。自分が懺悔をして悔い改めると、赦され、何度もそれが繰り返され、罪を常に赦されている人として日々生きていることがイエスの弟子としての生き方の一つの側面なのです。そのように赦されながら日々生きている人が、他人を赦さないことがどれほど酷いことであるかをイエスは教えようとしています。大きな罪を抱えた自分が赦される経験を私もしています。そのような経験をした時に、私たちは同じように他の人を赦すことを学ばなければならないとイエスは教えています。時には難しいことではありますが、最終的には私たちは憎しみや怒りのおもりから解放されるのではないでしょうか。

2020年9月14日