2020/09/21 (MON)

チャプレンより聖書のことば

それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」
(マタイによる福音書第20章11~12節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
この聖書の箇所は身につまされる思いになります。私たちも、必ず同じ不平を言うからです。思い当たりませんか。試験で10点だった友人の成績が5で、試験で90点であった私の成績も5だったとしたら。ところが、聖書は、「友よ、別にあなたがたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないですか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後に来た者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをあなた方はねたんでいるのか」といい、このたとえの最後に、イエスさまは、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言ってこのたとえ話を結ばれました。

実は、わたしたちの中には2つの基準があります。それは「ありのままの自分」の基準と「できる自分」の基準です。インドのガンジーは、「明日、死ぬように生き、永遠に生きるように学びなさい」と言っていますが、「ありのままの自分」と「できる自分」の両立を言っているのだと思います。確かに、学校の勉強というのは、「できる自分」をどんどん増やしていくことです。確かにこれも大事ですが、キリスト教は、「ありのままの自分」も大切であるというもう一つの基準も示しています。特に、この聖書の箇所は、「できる自分」の基準の他に、「ありのままの自分」の大切さを教えてくださっていると私は思います。それは、こんなことも、あんなことも、そんなこともできなくてもいい。ありのままでいい。いるだけでいい。「あなたは、そこにいるだけでいい、ただそれだけでいい。ありのままのあなたが好きだ。大好きなんだ」とイエス様は、私たちに語りかけてくださっているということです。これは、人は人というだけで尊重されるという、人間の尊厳の尊重とも言われますけれども、教会は、この「ありのままの自分」の大切さを、イエス様を通して教えてくださいました。ですから、この立教新座中高でも、できるだけこの「ありのままの自分」の基準の大切さを伝えたいと思います。私達が、夕方5時から葡萄園に行ってなにもできず、ただいるだけであっても、神様は、私達のことを愛して、大切にしてくださるということです。

どれだけの人が、どれだけ働いて、どれだけ効率よく、成果をだすことができたか。学校でいうと偏差値というくせ者ですが、そのような数字にとらわれる世界は、この世界にまん延しています。しかし、イエス様は、その効率化という数字の世界に対抗しています。最後にイエス様は、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」といって終わります。すなわち、「先にいる者が先になり、後にいる者が後になる」というような数字で測れるような「できる自分」の基準だけではないのです。たとえば、創造力や独創性は数字で測ることができません。そして、人間のなかで最も大切な独創性は、「ありのままのわたしでよい」ということに信頼して初めて生まれます。だから、「できる」自分だけではなく、「ありのまま」の自分も、もっともっと大切にしていきたいと思います。

2020年9月21日

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