2020/10/05 (MON)

チャプレンより聖書のことば

農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
(マタイによる福音書第21章38~39節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
今日のイエスのたとえを、私は「恩知らずのたとえ」と呼びたいと思います。この農夫たちはまさしく「恩知らず」であると思います。言うまでもなく、このぶどう園は主人のものです。農夫たちは、この主人の圧倒的な愛と思いやりによって、雇われて、すべてを貸し与えられて、すばらしいぶどうの実を結ぶようにと任せてもらっています。それがどれほどの恩かということが分かっているならば、当然その実りを主人にお返ししようとするはずです。しかし、この恩知らずの農夫たちは、全部主人のものであり、主人の愛によるものだということを忘れています。ぶどう園をまるで自分のものであるかのように思い込み、恩を忘れて主人の息子を殺すという暴虐の限りをつくします。そして、これが、私たちの姿です。私たちは恩知らずです。「恩」とひとことで言いますが、これはすごいことです。「恩」というものは、圧倒的に向こうからくるものです。こちら側にはもらう権利とか資格とかそういうことが一切ないのに、一方的に、圧倒的に、向こうからもらって、生かされて、救われる、それが「恩」です。だから私たちはせめてもの恩返しをしたいと、そう思うべきなのに、その恩を忘れているといただいたすべてを失い、天国さえも失ってしまいます。

若いうちはなかなか本当の「恩」がわからないかもしれません。「あの人は幼いな」「あの人は世間が狭いな」というときは、いただいているものがどれほどの「恩」かということを知らない場合に使うような気がします。しかし、人生の経験を積んで来ると、「恩」というものがどれほどのすごいものか、両親からの恩、先生からの恩、社会からの恩、何よりも神からの恩がどれほどのものか、わかってくるように思います。さまざまな試練を乗り越えて、神によってすべて与えられ、生かされて、今日という日を迎えているその「恩」というものが、どれほど素晴らしいものかということがわかってくるのではないでしょうか。それが経験豊かな者たちの徳ということだと思います。

イエスの教えのうちのとても大切なこと、いわゆる私は普通の人だと思っている人々に一番知ってもらいたいことは、今日、新しい朝を迎えて、神によって生かされているということです。息を吸って吐くことができているということです。これは、昨日のためではなく、明日のためでもなく、今日、今、生きるために息をしています。私たちは、礼拝で、静かな時をもって、私たちの生活を振り返り、神から頂いた恵みを感じていくような時を持っていますが、この「恩」に応えようではないかと呼びかけたいと思います。いただいたこの一日を、この恩にふさわしく生きていこうではないかと思うのです。もし、生きがいというものを感じるとすれば、この「恩」に応えていこうとすることが生きがいであるように思います。そうして、最終的に呼吸がとまるとき、私たちを天国に迎え入れるためにそれまで生かしてくださったという、全面的に神がなさってる恵みの世界を、今日も信じて喜んで生きていきたいと思います。

2020年10月5日

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