2020/11/02 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」
(マタイによる福音書第5章1~4節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
教会の暦では、11月1日は「諸聖徒日」という日です。キリストの忠実な僕として、キリストに従い、キリストのために苦難を受け、殉教した全ての聖人、聖徒を覚えてお祈りする日です。また、その次の日、11月2日は「諸魂日」と言われ、その他のすべての世を去った人々のために祈る日です。日本式で言えば、仏教の「お盆」のようなシーズンで、私たちの信仰の先輩、私たちの胸にある世を去ったすべての人々を覚え、その姿を想い浮かべながらお祈りをささげます。

今週の福音書は、イエス様が口を開くと、その口からあふれ出てくる「あなたがたはさいわい」という祝福が、今日私たちの耳に届く、そういうとてもしあわせな気持ちになる、そんな聖書の箇所であると思います。イエスが言いたいこと、どうしてもみんなの心に呼びかけたいことの全てがこの祝福の言葉に込められています。「あなたがたはさいわい」。福音書のなかにはどう見てもふしあわせな人達が大勢集まっているにもかかわらず、イエスは「あなたがたはさいわい」そう言います。どうもイエスの「さいわい」は、普通の言うところの「しあわせ・不しあわせ」を超えた「まことのさいわい」のようです。今日はぜひイエスの祝福を受けて、まことのさいわいの喜びに満たされてほしいと思います。確かにふしあわせなことはたくさんあるけれども、それを超えてある「さいわい」の世界に目覚めてほしいということです。

教会には、病床訪問の祈りというものがあります。これは、病人のための祈りですが、それは単に「病気が治りますように」っていうお祈りではないんです。病気が治っても、また別の病気になるかもしれないし、ほとんどの人が最後は病気で死んでいく以上「治りますように治りますように」とだけ祈っていたら、最後は病気が治らなくて不しあわせで終わりっていうことになります。私たちの信仰はそういう信仰ではないと思います。もちろん病気は治ってほしい、奇跡を願う気持ちもあります。我々は素直に甘えて、正直に「病気治してくれ。こんな辛いこと止めてくれ」と祈ったらいいと思いますし、お互いに祈り合うべきだと思います。しかしそれだけで終わっていたら「さいわい」の世界に入り損ねます。私達の信仰は、まずは「病気を治してくれ」と祈り、しかし、たとえ治らなくても神の「さいわい」の世界があるということを信じる、そういう信仰です。  

その祈りは、もちろん回復を願う祈りでありながら、同時にもっと大きな「さいわい」の世界を祈る祈りです。現に治る方もいれば治らない方もいるのです。病いを抱えて今一生懸命その苦しみに耐えながら、頑張っておられる方もいます。その苦しみのうちに「治りますように」と祈るだけではなく、それ以上に「治ろうが治るまいが神様のさいわいが全ての人に注がれている。そのことだけはどんな苦難の中にあっても忘れない。そのことだけは信じ続ける」という祈りも大切であると思います。私たちもふしあわせを抱えている中に神様のめぐみが注がれているということを思い出して、それを疑ったりしないようにお互いに励まし合う、そのような祈りを大切にしたいと思います。

2020年11月2日

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