2020/11/23 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
(マタイによる福音書第25章31~46節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
システィーナ礼拝堂の壁一面に広がるフレスコ画『最後の審判』は、ミケランジェロの一番有名な作品の一つです。キリスト教の重要な教えの一つとして、最後の審判で神が全人類を裁く日が来るということがあります。ミケランジェロの描いた絵を知っている人も多くいるのではないかと思います。そこで神は人類を天国へ行く人と地獄へ行く人の二つに分けます。マタイによる福音書第25章31~46節にあるイエスのたとえ話の一つでは、この最後の審判の日のことが書いてあります。

イエスのたとえ話では、同じテーマを様々な角度から取り上げていますが、今回のたとえ話では、天国に行く人と地獄に行く人の決定的な違いの一つに注目をしています。今の世の中にいる最も小さい者、弱い者に対してわたしたちがどのように接するかで、わたしたちの心の中にある隣人への愛だけではなく、神への愛が表れるとイエスは教えています。飢えている人を見て食べ物を与える人、のどが渇いている人を見て飲み物を与える人、旅をしていて泊まるところがない人を見て自分の家に受け入れる人、牢にいる人の寂しさや辛さを知って会いに行く人、これをする人はイエスご自身に同じことをしているとイエスは言います。そして飢えている人を見て食べ物を与えない人、のどが渇いている人を見て飲み物を与えない人、旅をしていて泊まるところがない人を見て助けてあげない人、牢にいる人の寂しさや辛さを考えない人に対して、イエスは言います。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイによる福音書第25章45節)

ここで気が付かなければならない点の一つは、あえて悪いことをしていなくても、弱い人や小さい者の苦しみに対して無関心でいる心の状態が、愛のない状態であるということです。現代の日本の社会では、飢えている人や泊まるところのない人が周りに多くいるわけではありません。だからこそ、無関心になりやすいのではないかと思います。ほかの人の苦しみに無関心でいることは、自分がよければいいという思いがどこかで自分の優先順位や思いや行動を司っているのです。他の人を傷つけたりいじめたりすることよりも、この状態が一番愛情のない状態です。そして、天国は神と隣人を愛する場所ですので、神と隣人への愛情のない人が天国に入ることもないということになります。

このイエスのたとえ話が行動だけではなく、心の状態に関する教えであることをよく理解する必要があります。実際にできることと、心で思っていることに差が出てしまうときも多々あるかもしれませんが、心のなかで小さい者を助ける思いがあれば、いずれその思いは時間とお金の配分、そして言動全体に反映されます。

2020年11月23日

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