2025/05/12 (MON)

チャプレンより聖書のことば

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書第20章24~29節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
復活されたイエスが弟子たちに初めて姿を現された時、トマスだけが仲間と一緒におらず、彼が仲間の元へ戻ると仲間たちは「主を見た」と語ります。トマスに語りかける仲間たちの表情は、彼らがイエスと再会した時と同様に喜びに満ちた笑顔であったことでしょう。イエスからの「平和があるように」との祝福の挨拶は神からの赦しの宣言でもあり、弟子たちから絶望や不安を払拭し、これ以上ない喜びで満たしたことが想像されます。ユダヤ人が願う平和とは神が共にいてくださることの実感であり、イエスの挨拶は恐れるものが無い完全なる安心と、無上の喜びとを彼らにもたらしたのだと言えます。

ですが、トマスだけは仲間たちと共に喜ぶことが出来ず、駄々をこねます。
彼は自分の指をイエスの手の釘跡に入れ、手をわき腹の傷跡に入れなければ決して信じないと言っていますが、この要求からは彼が仲間の輪に入れない心境にあること、自分が除け者にされた寂しさや口惜しさが感じられます。でもそれは自分も共に喜びたい、仲間の輪に加わりたいとの思いの裏腹です。復活のイエスはトマスの思いを聞き届け、彼のために現れて応えられ、彼は信じる者となって仲間と共に喜べるようになったのです。

人は除け者にされたと感じると、普段理性的に振舞う人でも感情的になりがちです。「私は聞いていない」、「自分は知らない」と心を頑なにした挙句、妥協どころか交渉すら拒否するようになることも珍しくありません。結果、仲間を遠ざけて孤立し孤独へと突き進むことすらあります。仲間たちが全く意図しない場合であっても、仲間外れや除け者にされたという実感や思いは、そう感じた人の心に傷を負わせて、仲間との関係を壊すことに繋がります。

聖書はイエスを神の生きたみ言葉と表現しますが、それはイエスの行動が神の意志を私たちに示すものだからです。イエスがトマスに現れたことにも神の意志が働いており、神はトマスの心を救うだけでなく他の弟子たちにも大事なことを伝えられたのだと言えます。それは神が私たちの誰一人として除け者にされ孤独になることを望まれていないこと、そしてイエスの弟子は孤立している人を訪ねて、他の人たちとの繋がりを結び直す働きを担うよう求められていることが読み取れます。世界には人種や宗教、文化の違いなどで対立し、争い傷付けあう事件が頻発しています。身近な所でも、クラスやクラブでも交わりの失敗から仲間との繋がりを拒絶してしまう人がいます。

神は私たちに見て見ない振りをするのではなく、あなたが手を伸ばしてその人と繋がりなさい、他の人との仲介者となって繋げなさいと言われています。人と人とを遠ざけるのではなく、人と人とを繋ぐ働きこそが、私たちを平和へと導き、私たち自身を助けることになります。私たちの行動こそが誰かの希望になり、また自分自身が苦境に立った時の希望にもなるはずです。神がイエスを通して模範を示された、人と人とを繋ぐ働きを共に担いましょう。

2025年5月12日

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