2020/12/07 (MON)

チャプレンより聖書のことば

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
(マルコによる福音書第1章4節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
イエス・キリストがユダヤ地方で自分の働きを始める前に、彼の親戚の一人であった洗礼者のヨハネが現れ、イエスの働きのための道を備えたと聖書の福音書で記されています。イエスの到来のために備えることは、必然的に罪の悔い改めに繋がります。洗礼を授かることは「清められる」ことが含まれます。何か特別なものや聖なるものに触れる前には、日本の文化でも必ず自分を清めてからそれに近づきます。自分を清めることは旧約聖書のモーセの律法にも多々でてくるものです。人々が神に捧げものをする前には必ず自分たちを清めなければなりませんし、食べる前にも手を清める習慣がありました。これは、日本では神社やお寺に入る前に自分を清めることや、茶室に入る前に必ず自分を清めることによく似ています。

「清め」は汚れなど、自分の外から付いたものを洗い流すための大切なものですし、ユダヤ教でもキリスト教でも聖なるものに近づいたり、聖別されたものに触れたりするときには必ず行うものです。しかし、洗礼者ヨハネが人々に宣べ伝えた洗礼は外の汚れを流す清めだけではなく、心の中にある罪の赦しを得させるための「悔い改めの洗礼」でした。洗礼というのは清めと悔い改めの両方の意味を持っています。イエスは次のように教えています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコによる福音書第7章20~23節)。心の中にある悪を取り除き、心からの悔い改めを求めるのがキリスト教の中心の一つです。外から来る汚れを洗い流すだけでは人間は救われないのです。洗礼者ヨハネとイエスは最終的には同じ目的をもって働いていました。それは、人の心をマルコによる福音書第7章20~23節に書いてある罪から、聖なる創造主である神に向けることです。

この時期にはクリスマスライトや音楽など、様々な楽しく美しいものがあります。この世の中に救い主が生まれたことは本当に喜ばしいことであり、大いに祝うべきものであります。しかし、同時に、自分の心の中を正直に見つめ直すことをしなければ、私たちはその救いを逃してしまうことになります。自分を清めることだけではなく、是非自分の心の中にある罪を悔い改め、その罪を赦すことができる唯一の神を礼拝することによってクリスマスを祝いたいと思います。もしそのように祝うのであれば、私たちは罪から救われ、実に喜ばしいクリスマスを過ごすことになるでしょう。

2020年12月7日

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