2021/02/08 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊に、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
(マルコによる福音書第1章34~35節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
今週の福音書で、イエスはまだ朝暗いうちに人里離れたところへ出て行きます。イエスの時代の人里離れたところですから、全く無人の砂漠地帯、荒れ野です。空気は冷たく全くの静寂の場所です。イエスは一人そこに座って「天の父はこれほどまでにこの世界を愛し、この私たちを愛して、そしてこの私を愛しておられるのか」と、天の秘密に直接触れる貴い時間を過ごしていただろうと想像します。一人のイエスは、自分の中の様々な悪しき「ささやき」と戦ったに違いないと思います。ここは、宗教の「怖い」部分との戦いです。聖書には、宣教活動を始める前に荒れ野で様々な悪しき力と戦い、それにうち勝ってから宣教活動を始めたように書いてありますが、それはイエスの生涯を分かりやすくまとめるために単純化しただけのことで、そんなに簡単に「さあ修行はもう終わり、あとは一度も悩みません」だなんてことはあるはずなかったと思います。今週の箇所でも、大勢の人に囲まれ、大勢の人に期待され、大勢の人から評価され、だからこそ、そんなイエスは、毎朝、「朝早く暗いうちに」みんなから離れて一人で世界を見つめ、自分を見つめる時間を必要としていたと書いてあります。イエスも戦います。大勢の人の期待に。大勢の人の評価に。そして、つい大勢の人に気に入られようとして、大勢の人の評価を「受け入れよう」としてしまいます。ここが宗教の怖いところです。勢力の拡大を目指しますと、宗教のエゴイズムが肥大化し、本当に大事なことが見えなくなってきます。ついつい良くも悪くも評価に気を取られて誤りを犯してしまいます。ここが悪霊との戦いです。そうならないためには、まずは、そのような弱い自分を受け止める、弱点を受け止める、自分の中にある神、聖霊で受け止める、自分のなかにある神様と対話して受け止める、自分のもっとも尊い部分で受け止める。イエスは、一人荒野、さみしいところでこれをしていました。そしてそれはイエスの弟子である私たちも同じであるべきです。イエスですらそうなのだから、私達も自分自身の弱さに気づき、これを受け止め、そんな自分でも「大丈夫」と言ってくださる、やさしい神様と出会い、そして、自分の尊さに気づくときが必要です。自分はいまの自分でもいいんだということです。そして、そのような弱い自分をふくめて、ありのままの自分を受け止めているとき、大勢の人の評価・批判を「受け入れる」のではなく、「受け止める」ことができるのではないでしょうか。

受け入れるということは、なんでも「その通り」ということです。ですから、とんでもない信仰であっても「その通り」といって、奴隷や殺人も受け入れてしまうことになります。受け入れるということに自分の立ち位置はありません。だって、自分の立ち位置は返上して、私はすぐにあなたの言われた通りになりますよということだからです。しかし、受け止めるには、実は、自分の立ち位置が確かにあって、そこで受け止めるということになります。相手と対話をするとき、それが単なるおしゃべりではなく、対話になるためのヒントは、相手の話を、評価や批判を、「受け止める」だけの「自分の立ち位置」が必要になってくるということです。礼拝などのお祈りの時間で、イエスのように自分を見つめ直してみるといいと思います。

2021年2月8日

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