2021/03/01 (MON)

チャプレンより聖書のことば

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
(マルコによる福音書第8章36~37節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
冒頭の言葉は私が子どものときに母親からよく言われていた言葉です。親戚に大金持ちがいたということもあり、その人の家に遊びに行った帰りにもこの話をされた覚えがあります。裕福になることが幸せになることだと思い込んでいる人もいます。お金があれば解決できる問題は多々ありますが、同時に、一番大切なことは決してお金や権力で解決できるものではありません。それをイエスは弟子たちに教えようとしましたし、私たちにも教えようとしています。

マルコによる福音書第8章で、イエスは自分の死と復活について弟子たちに話をしているなかで、この話をしています。実は、この箇所では「命の大切さ」を説いているのではありません。冒頭の言葉の直前に次のようにイエスは語っています。「わたしの後に従いたい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(34~35節)。命を正しい目的のために捧げることの必要性をイエスは説いているのです。お金をとにかく沢山集めようとしている人は、自分のために生きている人です。そして、そのような生き方は結局命を失う生き方です。なんの役にも何の益にもならない人生で終わってしまうからです。そして、やがて死んだときにはそのお金で命を買い戻すこともできないからです。しかし、十字架を背負って、人の罪を贖うために、そして愛するために生きる人は命を捨てる(捧げる)ことになりますが、同時に命を得ることになるとイエスは語っています。

イエスにとって命を得ることは最終的には天国の話に繋がっていきます。この世に生きるわたしたちはどんなに健康であっても、どんなにお金持ちであっても、どんなに権力や力を持っていてもそれを失います。しかし、天国へ行く人は永遠の命を得ることができます。この永遠のことを視野に入れることがイエスの教えの重要な部分の一つです。人間はどうしても目の前のことでいっぱいになってしまいますが、それだけで満足することもできないですし、最終的にはなにも得ることはできません。何かを得たい人は今の命を超えるものを目指さなくてはなりません。

2021年3月1日

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