2021/03/08 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
(ヨハネによる福音書第2章15~16節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
イエス様は、今週の聖書のなかで、「このような物はここから運び出せ」と語っています。この言葉は、イエス様のみ跡に従いゆく私たちにとって、とくに大切なイエス様のみ言葉です。お金とか、商売の道具とか、「このような物はここから運び出せ」。なぜそういうことを語られたかというと、「そういうものがここにあると、そういうこの世の思いに支配されて、天の父のみ心が分からなくなってしまう。だから、この世のものはここから運び出してくれ」というイエスさまの思いがあるからです。「ここから」というそれは、どこでしょうか。そうです。私たちの心のことです。私たちの心の中から運び出せということです。いろいろとこの世の心配はあって、お金のこととか、商売のこととか、この世の思いから完全に離れることは難しいですけど、お祈りのときにあたってはともかくそれを心から運び出して、心の中を神様のみ心でいっぱいにすることであると思います。「このような物はここから運び出せ」って言ったイエス様は、本当にあらゆる人間的な考えから離れて、ご自分を神様のみ心でいっぱいにして、不条理なる十字架を背負い、この世の体から天の体へと復活していきます。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、私たちも神様に従順であることができるのか、そのことが、聖書では問われています。でも、よく考えてみると、それはできるのではないかと思います。というのは、そもそも昔は、物々交換で、ひと言でいえば「その日暮らし」でした。とってきたものを交換しても、取っておけません。腐っちゃいます。だから、その日食べるわけです。明日獲物がとれるかどうか分からないし、あさって交換できるかどうかも分からない。その日消費して、それで終わり。明日のことはまた明日っていう時代がもともとの人間の営みです。ところが、お金が生まれると、これはいつでも交換できるし、取っておけるわけです。そうすると人類に何が起こるかっていうと、「未来の計画」っていうことが起こるんです。もしお金がなかったらその日暮らしなわけで、明日以降の計画なんか立てようがない。でも、お金は貯めておけるし、いつでも好きな物に交換できるから、それじゃあ、このお金をいつかこういうことに使おうとか、貯めておいて老後はこう暮らそうとか、そういうことが可能になってくると、私たちは「未来」を考えるようになります。そして未来を計画できると思い込むようになります。思い込んでお金に支配されるようになってしまいます。でも実は、思い込んでるだけです。だって、未来は本当の意味では決して計画できません。私たちは知っています。現実は、私たちの思いもよらないことが必ず起こるということを。未来は私たちの思い通りにはなりません。このコロナ禍を考えてみてもそうです。にもかかわず、明日以降のことをある程度計画できると、私たちの心に、いろんな人間的計画ってものが出てきます。それ自体は、好きに計画すればいいことでそれほど悪いことじゃないかもしれないけれども、そのせいで「神様のみ旨」から、だんだん離れていってしまったとすると、これは大問題です。お金は、確かにいいものですけれど、自分の未来を自由にできると思ったら、実はそれが大きな間違いの始まりです。

私たちは、お祈りの時間を持ちます。人間の思いにこだわると、お祈りなんて無駄なことだということになるかもしれません。なぜなら、お祈りは、神様に全てをゆだねなければできないことだからです。そして、今週の聖書は、いわゆる「イエスの宮潔め」と言われていますが、覚えておいていただきたいのは、私たちの体は、聖霊の宮であると言われているということです。ですから、私たちの体が、お祈りによって聖霊に満たされること、お金というような自分の力ではなく、聖霊で満ち溢れて、清められることはとても大切であり、そのことを通して、神様は決して私たちを悪いようにはされないということに信頼していきたいと思います。

2021年3月8日

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