2021/03/15 (MON)

チャプレンより聖書のことば

人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
(ヨハネによる福音書第6章14~15節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
ヨハネによる福音書第6章によると、年に一回行われていたユダヤ教で最も重要なお祭り、過越祭のとき、イエスがエルサレムに登ろうとしていたところ、大勢の群衆がイエスの所へやってきました。イエスはそこで彼らにパンを食べさせたが、満腹になった彼らは、ますますイエスを囲んで、冒頭の言葉にある通り、「世に来られる預言者である」と言い始めました。そこで、彼らがイエスを王にして、ローマ帝国から自由になることを考えていたということが書いてあります。ここに限らず、2000年前のユダヤ人たちは、自分たちの自由を求めていて、再びイスラエル王国を建てようとしていました。このことに対して、イエスは一度もその考えに賛同することをせず、逆に、ローマ帝国に税金を払うよう人々に教えていました。イエスの行っていた働きと人々や弟子たちが求めていたメシア(救い主)には大きなギャップが存在し、その問題が福音書の大きなテーマの一つです。

2000年前のユダヤ人たちが求めていた救い主は、自分たちをローマ帝国の厳しい支配から自由にする人、また、かつてダビデ王とソロモン王の時代に繁栄したイスラエル王国の再建でした。政治的かつ経済的弾圧からの救いを人々は求めていて、その上、国民として誇れる王国を求めていました。このことは多くの人々が求めることでありますし、実に、多くの人々がこのようなことに人生のすべてを捧げています。しかし、イエスが当時のユダヤ人たちに与えようとしていた救いは、彼らの想像をはるかに超えるものでした。イエスを王にしようとしていた群衆の人々からイエスは逃げ、ひとりで山に退きました。多くの人は、大勢の群衆が自分を王(ときには大統領など)にしようとしていれば、そこで考え方を変えてそのようになろうとするかもしれません。しかし、イエスが行っていた働きは神からの使命であり、当時のユダヤ人たちの政治的状況と経済的状況よりも大切なものでした。群衆だけではなく、イエスの弟子たちもイエスが王になり、自分たちがその新しい王国のなかで一番偉い人たちになることを話し合う場面が福音書にあります。

人間が求める救いの殆どは目の前のこと、政治的なことであったり、病気であったり、経済的な問題であったりします。しかし、イエスがわたしたちに何よりも与えたかった救いは、自分たちの心と思いを束縛する罪からの救いでした。人間は罪から救われるのであれば、政治的、経済的な問題からも救われるのではないでしょうか? 人類が神と人を心から愛することを覚えれば、すべての問題から救われるのではないでしょうか?

2021年3月15日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。