2021/09/27 (MON)

チャプレンより聖書のことば

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
(マルコ福音書第9章38~41節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
私は、ほぼ毎日自分の家から立教新座中高まで歩いて通っていますが、実はその間に2つの公園を通ってきます。公園は子どもの天国のようなところだと思います。子どもたちが本当にのびのびとしています。失敗なんか気にせず、自分の気持ちを大切にしているなと感じます。走っていて突然転んでも、「自分は大丈夫だ」という感じですね。少し泣いたりしますが、何事もなかったようにまた遊び始めます。そして、周りにいる子どもたちも、そんなお友達を、バカにしたり、からかったりせず、「みんなちがって、みんないい」という思いをしっかり持っているんでしょうか、自分のお隣にいる子どもにも「大丈夫だよ」と言っているようなそんな雰囲気です。なんかそんな姿を見ていると、神様がみんなのことを「大好きだよ」と言っていること、そして、自分のことも「大好きだよ」と言えること、周りにいるお友達にも「大好きだよ」と言えること、そんな雰囲気が感じられて、天国とはこういうところだと思います。大人になってしまうとあの姿が、うらやましくて、どうしても「間違ってはいけない」という心の習慣にとらわれてしまうようです。公園のお母さんたちはすこし違った目で見ているのでしょうか。「間違うと笑われる。育て方が悪いと思われる。だめだなと思われる」そうした恐怖感に怯えているのかもしれません。私も以前は、このように考えていたので、もしかするとそうかもしれないと思うのです。クリスチャンになった後でもです。みんなの前で恥をかくことが恥ずかしくて「間違ってはいけない」と考えていました。いつもびくびくしていることにだんだん疲れた私はある日、お祈りのなかであることに気づきました。「間違っても大丈夫。大したことはない」、すると、気が楽になり、行動しやすくなったのです。「間違っても大丈夫」、実は、神様はいつもこのように私たちに話しかけてくださいます。だからもう少し、はやく気づけばよかったと思っています。

「間違っても大丈夫。大したことはない」は、一杯の水のような言葉だと思っています。人間誰しも、死の恐怖を感じるものですが、自分が死ぬことを恐れるあまり、人の命をないがしろにしたり、踏み潰したりしながら、自分だけが生きようとしてあせることが、戦争につながっていくのだと思うからです。「間違っても大丈夫。大したことはない」という言葉は、そのようなあせりを沈め、いつかその人の自然な終わりが来る日までは死なない、ということを言い聞かせて、心を静めてくれまる言葉であると思います。私たちにできることは、小さいものです。喉が渇いた人に、一杯の水を差し出す。しかし、そのような小さな、取るに足らない業が大切です。自然災害や戦争などで一杯の水でさえ分かち合うことが難しい状況に陥ることもあります。特に、このコロナ禍にあって、人との距離をとらなければならないということは、この取るに足らない小さな業が大切になってきます。ですから、これからの一週間で出会う人たちと、一杯の水のやり取りをするような小さな出来事の中で過ごしていきたいと思います。ソーシャルディスタンスはとっても、心の囲いをつくらず、人を裁かず、神のみ手の中で、共に生かされていく、そこに天国があると思います。コロナ禍にあって、このことが特に大切になります。そして、大変な思いをしている方がいらっしゃったら、「間違っても大丈夫。大したことはない」すなわち、「大丈夫だよ」「神様が必ず助けてくださいますよ」と言い合いたいと思います。

2021年9月27日

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