2021/10/18 (MON)

チャプレンより聖書のことば

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
(マルコによる福音書第10章42~45節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
イエス・キリストの弟子たちの中で12人が使徒として選ばれましたが、イエスがメシアとして新しい王国を建てたときに、彼らの間で誰が一番偉くなるかについての議論が始まっていました。それを聞いたイエスは一同を呼び寄せ、冒頭の言葉を通して彼らに本来のリーダーとしての在り方を教えてくださいました。イエスが求めている支配者と一般的な社会にいる支配者は大きく異なります。

自分の立場を主張して人を無理やり従わせる人は、どこの組織や社会にもいます。そのようなリーダーはごく普通かもしれません。しかし、そうであってはならないとイエスは教えます。イエスは自分の弟子たちに、ある意味リーダーシップ教育を受けさせています。僕になること、人に仕えることによって人を導くことができるというのは、少し逆説に聞こえるかもしれません。しかし、考えてみると、人がついていきたくなるようなリーダーというのは、自分で模範を示すリーダーであり、みんなのために自分を犠牲にまでするようなリーダーであると思います。

イエス・キリスト自身が人に仕える者としてこの世に生まれたのです。そして、もし聖書の教えが正しければ、神ご自身がイエスとなって、私たちのために生まれたのですから、神ご自身が私たちに仕え、ご自身を犠牲にするリーダーであるということになります。このような面から聖書の最初の書物である創世記を読み返すと、神が最初に人間のために世界を創造し、整え、働かれているところから始まっていることに気付くでしょう。神は最初から私たちが必要としている全てのものを準備してくださったというのが天地創造の話です。そして、人間が罪を犯したときには、人間を見捨てることなく、自分を犠牲にして罪からの赦しの道を切り開いたというのがイエスの十字架の話です。このように、神と私たちの関係のすべてを、神が私たちに仕えているという観点から見ることができます。

ユダヤ教やイスラム教といったような一神教とキリスト教が大きく異なる点もこのことになります。神が苦しむことや、ご自分から罪のための犠牲になることは考えられないからです。しかし、それはある意味神の性質の問題だけではなく、神というリーダーがどのように私たちを導こうとしているかの違いであり、私たちがどのようなリーダーとならなければならないかという問題にもつながります。ぜひ、これからリーダーになっていく次世代の中高生たちに、イエスの教えを心に留めいただきたいと願っています。

2021年10月18日

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