2021/10/25 (MON)

チャプレンより聖書のことば

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
(マルコによる福音書第10章46~48節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
今週の聖書では、バルティマイという盲人が登場しますが、この聖書を読んでいると、見えるとは何か、と考えさせられます。実は目が見えないほうが、正しいことを見る目を持っていて、見えているほうが盲目状態である、そんなことも多いのではないでしょうか。

この盲人は「この方が救い主だ」「この方に信頼すれば救われる」と叫んでいます。逆に、見える人たちは、そんな盲人の物乞いがどんな辛い思いで道端で叫んでいるかが見えず黙らせようとします。こんな盲人、誰も相手にしないと思い込んでいます。人は結局自分の見たいものしか見ないし、見たいようにしか見ないのです。

目を開けて見ているつもりでも、自ら作り出した壁の中で本当に見るべきものを何も見ていないのであって、見えているつもりの私たちこそ「わたしを憐れんでください、目が見えるようになりたいのです」と叫び声を上げるべきではないかと思わされます。

大切なことは単純に目を開けていれば見えるというものではないということです。人は自分にとって都合のいいものだけ見ますし、都合のいいようにしか見ないということです。いつも同じ壁の内側だけ見て、それがすべてと思い込み、何も見えていないことがあります。イエス様が取り払いたかったのはこの「壁」ではないでしょうか。この盲人バルティマイは、最後には目が見えるようになり、イエス様から「あなたの信頼があなたを救った」と言われますが、あなたがもっていて取り囲んでいる壁を越えて神様に信頼し、神様とつながったそのことが救いなのだということです。

わたしは、名古屋出身なので、根っからの中日ドラゴンズファンですが、ファンというものは自分の見たいものしか見ません。名古屋に行くと、テレビで中日を応援する番組があって、来年は、中日の監督が立浪氏にかわって、これで来年は優勝だ、みたいなことをたぶん言っていると思いますけれども、立浪氏自体知らない方も多いと思いますし、ファンでない人には「それががどうした」と思うだろうなと感じています。中日スポーツの1面はかならずドラゴンズの記事で、とてもいい見出しがでていますから、勝ったかなーと思って読んでいると、最後になってやっと、昨日の試合は負けたということが分かってがっかりするわけですけれども、その中に、「ああ今相手のファンは喜んでいるだろうな」なんて喜びを分かち合う中日ファンはたぶんいないと思います。

そんなことしていたら野球はおもしろくないですし、そんな必要もないですが、私たちが普通に暮らしている毎日の生活って、もしかすると、そんな感じじゃないかと思います。自分の好きなもの、見たいこと、こうあってほしいと願うことばかりで成立していて、そこから一歩も出ようとしません。壁の向こうの本当の世界が見えていません。だからこそ、大切なことは、自分にそういうところがあるということを知るということ、そして、神様に「わたしを憐れんでください、目が見えるようになりたいのです」と御願いすること、これが大切になってくるのではないかと思います。そして、視野を広げて、人種差別や温暖化による気候変動、貧困問題など、私たちの周りにあるさまざまな課題に立ち向かっていきたいと思います。

2021年10月25日

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