2021/11/08 (MON)

チャプレンより聖書のことば

この貧しいやもめは、銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。
(マルコによる福音書第12章43~44節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
今週の聖書は、100万円を持っている人が、10万円を神さまへのささげ物としてささげたのと、100円しか持っていない人が、そのありったけの100円を全部ささげたのでは、100円をささげた人の方がたくさん神さまにささげたのだと言われるのです。それは、100円しか持っていない人は、貧しくて、これが生活費の全部だったからなのです。イエスさまは、神さまは、9万9千9百円多い方が喜ばれると言っておられるのではないのです。神さまと私たちとの関係は、私たちが持っている経済的な感覚、損得とは全く違うところにあるのだと言っておられるのです。イエスさまがなさる価値判断は、私たちが持っている金銭感覚、お金のバランスとは違うのだということです。

神さまが私たちに求められる関係、すなわち、神さまと私たちが、向かい合っている関係は、「すべてを捨てて、キリストに従う」というこの一言に尽きるのです。この一言に福音のすべてが要約されていると言っても過言ではありません。すべてを捨てるということは、自分自身をも捨てるということです。それは、「自分が、自分が」と、すべて自分中心の考え方で生きていることを捨てることであり、「自分のため」「自分の欲望」を満足させることだけを求めることを止めること、すなわち自我を捨てること、自己を捨てることが求められます。それは、自棄(やけ)になって、「どうでもいいわ、どうなってもいいわ」という単なる「自己放棄」ではなく、自己放棄の向こうにある自己実現というか、自己発見が目的なのです。自己放棄によってしか見いだせない「自分発見」、これこそが、ほんとうの救いなのだとイエスさまは強調されます。

イエスさまが、私たちに求め、迫っておられる関係は、程々とか、ちょうどよい程度とか、適当にとか、あまり度を越さない程度にとか、まあまあという関係ではありません。自分を捨てるのか、捨てないのか、わたしに従うのか、従わないのか、といつも詰め寄ってこられます。ほんとうの「自分発見」のためには、自己放棄が条件であり、そこでは、このやもめのように、自分の悩みとかさまざまな悩み、痛みとか、自分の大切なもの全部そこに込めて放り込むのです。この信頼を神さまはしっかり受けとめてくださるということです。

どうでしょうか、大抵、私たちは何か「自分の分はしっかり取っておいて余った分でうまくしよう」っていうような、人生も人間関係も生活全般がそういう感じになっていませんでしょうか。自分の守り分はしっかりしておいて余力があればっていうような感じです。

そういう時にはきっと真理には出会えないと思います。

もちろん生活費を全部放り込むことは現実にはできませんけれども、何か自分の力でということではなくて、全てを神さまの前に捧げる気持ちが、神さまから全ての力をいただく方法なのだということです。日曜日の礼拝には、「天の父よ、私たちはみ子によって、心も体も生きた供え物としてささげます」というお祈りがありますが、今日の貧しいやもめの箇所は、この「心も体も生きた供え物としてささげます」ということの大切さを私たちに伝えているのです。

2021年11月8日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。