2021/11/29 (MON)

チャプレンより聖書のことば

わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
(テサロニケの信徒への手紙一 第3章13節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
12月25日(クリスマス)の前の日曜日の4週間前の日曜日がキリスト教の暦の初日になります。今年は11月28日を降臨節第1主日と呼び、教会暦の始めとなりました。その時の礼拝の朗読箇所では、必ずイエス・キリストがこの世に再び来られることに触れています。クリスマスのお祝いは、神が人間となってこの世に来られたことを祝うのです。この世に生きる人間と同じように神が幼子として生まれ、育ち、学び、飲み食いをし、苦しみ、楽しんだことを聖書でも強調されています。降臨節第1主日にはその日の特祷があり、次の祈りを毎年祈ります。「全能の神よ、み子イエス・キリストはわたしたちを顧み、謙遜なみ姿でこの世に来られました。どうかいま、闇の業を捨てて、光のよろいを着る恵みを与え、終わりの日に生きている人と死んだ人を審くために栄光をもって再び来られるとき、永遠の命によみがえらせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。」この祈りにみられるように、イエスの最初の来世は謙遜な幼子として産まれてきますが、世の終わりに再び来るときには栄光を持って、正解を裁くために来られます。

イエスが再び来ることはキリスト教の最も重要な教えの一つであり、冒頭のテサロニケの手紙でも触れられていることです。イエスの再臨の前に、わたしたち人間に求められているのは、自分たちを清めること、そして聖なるものとなることであります。降臨節第1主日では、わたしたちが罪によって汚染した世界を神であるイエスに正しく裁かれることを覚える主日です。神の正しい裁きがなければ、悪と罪が糺されることなく歴史が終わってしまうことになります。この人生で富や権力をいかに自分のものにするか、いかに楽をすることができるか、いかに自分の欲を満たすことができるかといったような生き方をする人はどこの社会や国にも多くいます。「聖なる、非のうちどころのない者」として生きることを完璧にできる人はいませんが、それを求め、祈ることはできますし、少しずつ近づいていくこともできます。今の日本の教育の場では、安定した就職に繋がっていく試験勉強が中心となっていますが、本来のキリスト教教育では自分を清めることの方が重視されます。この観点からキリスト教の教会を考えたとき、教会こそ本来の教育の現場であると考えることもできます。

2021年11月29日

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