2021/12/13 (MON)

チャプレンより聖書のことば

そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
(ルカによる福音書第3章7~8節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
子どものころ、この聖書箇所にとても強い印象を受けた覚えがあります。こんな洗礼者ヨハネのような説教をする人は聞いたことがないなあと思いながらこの聖書箇所を読んだ記憶があります。おそらく2000年前のユダヤ地方でもこのような説教をする人は他にいなかったのではないかと思います。メシアがまもなく現れるので罪を悔い改めることをひたすら呼びかけたヨハネは、多くの人々の人生に影響を与えたようです。イエス自身もしばらくヨハネのところで修行をしたと言われています。

今の時代でも、2000年前のユダヤ教のように、「我々の父はアブラハムだ」を「神に愛されている」とすり替えて、罪を悔い改めることや実を結ぶことを教えないキリスト教の教師は多くいます。神に愛されているからこそ今のままではいけないということを言わなくてはならないのではないでしょうか。偽りの安心ということも存在するのではないでしょうか。つまり、神が私たちを愛しているので何をしてもいいというように、都合よく生きていく人がどうしても出てきます。

マタイによる福音書第28章19節でイエスは実を結んでいないイチジクの木を呪います。人の結ぶ実によって本当の命と信仰があるかが神には明らかになります。私たちが神に愛されていることは確かですし、それがクリスマスのイエスの誕生を通して表されています。しかし、神から授かった命と愛と祝福を無駄にし、悔い改めることをせず、この人生においてよい実を結ばないのであれば、そのような私たちには洗礼者ヨハネの呼びかけに耳を傾ける必要があります。

2021年12月13日

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