2021/04/06 (TUE)

チャプレンより聖書のことば

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
(マルコによる福音書第16章6~7節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
マルコによる福音書では、男の弟子たちは、先生と呼んでいたイエスが十字架にかかって死んでいくそのときにイエスを裏切って逃げてしまったとあります。自分たちまで十字架にかけられて死ぬのが嫌だったからです。このことにより、弟子たちは、自らの奥深くにある罪深さ、自分たちは本当にひどい人間であるということを知ることになります。つまり、先生であるイエスの十字架上の死の衝撃、さらに、自分たちがイエスを裏切るという罪深さゆえに神から裁かれるかもしれない弟子たちは、その「痛み」と「恐れ」の果てに、絶望の淵に追いこまれてしまいます。

最も深い悩み、苦しみのなかに突きのめされた弟子たちは、そんななかで、生前のイエスを思い出していきます。イエスの最後の瞬間を想像するとともに、イエスの生き方も回想したのではないでしょうか。生前イエスがその人生の歩みのなかで、自分たちの生まれ故郷でもあるガリラヤで、本当に苦しくつらい思いを日常的に強いられている人たちとイエスがいたことを思い出していきます。優しいイエスです。「大丈夫。ありのままでいいよ」と語ってくださるイエスです。同時に、弟子たちは、イエスの遺体は墓にはないという「イースター事件」にも遭遇します。もし、イエスの遺体がないのならイエスは今どこにいるのか。その疑問とあいまって、今どうしようもなく苦しんでいる、自分たち、弟子たちと、イエスは共にいる、私たちにも「ありのままでいいよ」と語りかけるイエスを体で感じたのではなかろうか。イエスを裏切った私たちにイエスは決して罰を与えようとはしない。むしろ、本当にダメな私たちだからこそ、イエスは共にいてくださる、「ありのままでいていいよ」、それを感じたそのときに、弟子たちは全く新しい世界へと突然飛びぬけたのではないでしょうか。あのダメダメな弟子たちが、一転して死を覚悟してイエスの愛、神様の愛を宣べ伝えていく、このことは、本当に不思議な出来事ですが、イエスの復活とは、このように事実として本当に「イエスが私たちと共にいてくださる」ということ、自分たちはイエスを裏切ったみじめな自分だけでは終わらない、それでもイエスは私たちを愛して共にいてくださる、「それでもいいよ」と言ってくださる、ここに希望があるのです。

立教新座中高でも、月曜日から土曜日まで週1回になりますが、今、ここに「イエスが共にいてくださる」ことを身体中で感じ、一緒に感謝と賛美の祈りの時間を持ちたいと思います。みんなで集まって仲間と共に、一緒にお祈りの時間がもてる、本当に嬉しくて、元気が出る、そんな気持ちを少し心の中で確かめたいと思います。私たちはバラバラでいてはいけません。バラバラでいちゃダメです。私たちは集まらなければなりません。一緒にいましょう。もちろん、新型コロナウイルス感染症対策をしながら。だって、このコロナ禍のなかで経験していると思います。1人でいると負けてしまいます。1人でいると疑い出します。1人でいると疲れていきます。弟子たちがイエスの復活を体験したとき、それは、弟子たちが仲間として、集まっていた姿ができてきます。だからこの信仰の仲間が集まってひととき共に祈って、神様から力をいただきます。この美しくて暖かい春の日差しの中で、仲間が集まってこうして祈るところに、奇跡が起こり「やはり神はいる」ということになります。奇跡は起こっています。一人一人の心に。集いのうちに。そのことを思い描きながら、新しい2021年度も一緒にお祈りのときをもっていきましょう。

2021年4月6日

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