2021/04/26 (MON)

チャプレンより聖書のことば

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
(ヨハネによる福音書10章11節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン ベレク・スミス
キリスト教の大きな特徴の一つは、神を羊飼いに例えていることです。三千年ほどまえに、イスラエルの王となったダビデは小さいころから羊飼いとして働いていました。彼が聖書にある詩編第23編を書いていて、そこで神を羊飼いに例えています。「主はわたしの牧者、わたしは乏しいことがない」(1節)。古代の神々を見ても他に羊飼いに例えられている神はいません。そもそも、古代の中近東では羊飼いはとても階級の低い仕事とされていました。
しかし、ユダヤ教とキリスト教の聖書では神を羊飼いに例えることが多くみられます。詩編23編にも書いてある通り、羊飼いは羊を「緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われ」ます。羊飼いは命がけで狼や獅子から羊たちを守ります。そして、何よりも、つねに羊と一緒にいて、どこに行くにも一緒に行きます。もう一つ、イエスの言葉に出てくる大切なことがあります。「その羊もわたしの声を聞き分ける」と16節で言っています。古代の中近東に限らず、羊は必ず自分たちの羊飼いの声を聞き分けることができ、その声のみについていきます。羊飼いと羊の関係は言い換えれば愛の関係であります。

イエス・キリストがこの世に生まれてきた時には、この羊飼いと羊との関係を表すためでもありました。冒頭の言葉でイエスは自分の弟子たちに自分が「よい羊飼いである」と言いますが、これは当時のユダヤ人たちにとっては彼が自分を神と宣言しているに等しいです。イエスは弟子たちを羊のように愛し、最後にはその羊たちの罪を贖うために命を捨てました。このような愛の模範がキリスト教の原点の一つであります。イエスが昇天したとき、教会というものを残し、教会には使徒たちと使徒たちの働きを継承する主教たちを任命されました。二千年後でも世界中の主教たちはこの牧者としての働きを継続し、それぞれの教会に主教から送られる「牧師」がいます。それだけではなく、聖書を通して神の羊飼いとしての声がわたしたちに与えられていると信じています。このようにして、今でも神が人間を羊飼いのように愛し、緑の牧場に導いています。最終的に、神が私たちを導こうとしている緑の牧場は天国であります。目ではまだ見えなくても、羊飼いであるイエスの声を聞き分け、その声が示す愛の道に従って歩めば緑の牧場に到達すると信じています。

2021年4月26日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。