2021/05/31 (MON)

チャプレンより聖書のことば

主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
(出エジプト記第3章4~5節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
約3500年前のことになりますが、モーセが羊を飼っていたとき、不思議な光景を見ました。ある柴が燃え尽きることなく燃えていたのです。それに近づいたとき、神はモーセに語りかけました。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い出すために、一旦エジプトから逃げてきたモーセを呼び戻しました。ユダヤ教とキリスト教の神は、自ら人間に呼びかけ、救い出そうと計画される神です。それはモーセで始まったことではありません。創世記第3章で、アダムとエバが罪を犯した直後も同じように神はアダムとエバを呼び出し、彼らに「どこにいるのか。」と探しに行きます(第3章9節)。創世記第12章1節でも、神はアブラムに呼びかけ、彼に約束と使命を与えます。そして、アブラムを通して全世界の人々が祝福されると約束されます。

聖書では何度も人間は罪を犯して神から離れ、神は人間を呼び寄せ救い出します。エジプトで奴隷になり苦しんでいたイスラエルの民も、神は自ら救い出そうと計画されました。このことは聖書の神の愛を表す大きな点の一つであります。誰かを愛するとき、自分から呼びかけたり、働きかけたりすることが多いかと思います。ユダヤ教やキリスト教の神は、古くからアダムやアブラムやモーセに語りかけた神だけではなく、何よりイエス・キリストを通して積極的にわたしたちに近づき、一緒に住まわれたと信じています。そして、今でも聖書や教会を通してわたしたちに呼びかけ続けています。パウロはこのように神の愛について説明をしています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマの信徒への手紙第5章8節)。わたしたちが神を求めることは救われるためには必要ですが、その前にすでに神は羊飼いが迷った羊を探しに行くと同じようにわたしたちをも探し出します。聖書の言葉やイエスの十字架のことを聞いていることそのものが神の愛がわたしたちを探し求めている証となります。

今、モーセの時代のように目の前に神が現れているわけではありませんが、神は決してただ単に姿を消しているわけではありません。逆に、神はモーセに与えた律法、そしてその後のすべての啓示を通して今でもわたしたちに語りかけています。全世界にキリスト教の司祭や信徒がイエスの福音を伝え、聖書をすべての言語に訳していることも神のわたしたちへの呼びかけであります。そして、呼びかけられたわたしたちは、その神の呼びかけと愛情に対してどう答えるかがとても大切であります。

2021年5月31日

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