その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
(創世記第3章8~9節)
立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
神様が初めに天と地をお造りになったとき、造られたすべてのものは「非常に良かった」と言われています。神様が造られた最初の世界には、悪いものはひとつもありませんでした。「非常に良かった」というのはただ悪いものはなかったというだけではありません。神様に造られたすべてのものは、その造られた目的や役割を完全に果たしていた。それが「非常に良かった」と言われている意味です。神様が造られたものは、物でも生き物でも、何の目的も役割もなく、意味なくただそこにあるというものはひとつもありません。ただそれだけでということではなく、他のものとの関わりにおいてです。私たち人間を含めて生き物、そして物も関わりの中にいるということです。
例えば、今私たちは息を吸って吐いています。呼吸をしていますが、呼吸をしなければ生きていくことができません。「息」は、ギリシャ語では「プネウマ」、ヘブライ語では「ルアッハ」と言い、「霊」とも訳されるとても大切なものです。私たちは、呼吸を今しているわけです。5分前のためでも5分後のためでもなく、今「生きる」ためにしています。そして、息を吸って酸素をとっていますが、酸素は、植物の光合成がなければ供給されません。すなわち、植物がなければ酸素がなく私たちは生きていけませんが、雨があったり、土があったり、虫がいたり、小鳥たちがいたり、猫がいたり、そのように私たちの周りに、今、物や生き物がなければ、私たちは生きていけないわけです。これは学校生活でも同じことが言えるでしょう。人も物も生き物もそのように互いにつながりをもつことの中で生きています。そして、今週は、教会では、地球環境のためにお祈りをしますが、地球環境保護という視点でいえば、SDGs(エスディージーズ)、これは、持続可能な開発目標であって、2015年9月の国連サミットで採択された、2030年に向けた具体的行動指針です。私たちはつながりの中で生きているという、とってもシンプルなことが言われていると思いますし、持続可能な開発によって地球環境を守らなければならないということは、この創世記の記述からも出てくるわけです。
さて、本日の聖書の箇所を見たいと思います。まず、悪魔からの誘惑を受け、アダムとエバが「食べてはいけない」と言われた木の実を取って食べた直後、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とあります。「風の吹くころ」というのは、ヘブライ語では、「霊」とか「息」とか訳されるとても大切な言葉「ルアッハ」が使われています。ですから、ここは、神様の吐息、息吹、といったものが聞こえてきたとき、ということになりますから、神様がそこにいるということになると思います。しかし、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れる」のです。なんとも悲しい光景です。アダムと女は、神様とのつながりを断ち、そして、人、生き物、物とのつながりをも断っていきます。
私たちは、どうしても、悪魔から誘惑を受けますし、神様の御心に背いてしまうようなことを、図らずもやってしまったということがあると思います。思わず、怒りがわいてくるとか、相手の罪が許せないと思ってしまうときがあると思います。ここも悪いのですが、本質的な悪ではなくて、「わたしはあなたに、罪を犯しました。ごめんなさい」と謝ればよかっただけなのに、それをせずにごまかそうとして隠れてしまいます。ここに、傲慢、自分中心、エゴイズムといわれている悪の場面が現れます。隠れた場所は、非常に狭い、その人の囚われた自分だけの世界です。例えば、今まで、人間だけがよければいいと考えて地球環境を開発してきたことは、やっぱり狭い人間中心主義の悪であって、SDGsとは、そのような人間の傲慢を見つめ直していく取り組みであると思います。どうぞ私たちは一人で生きているのではない、つながりの中で生きているということを思い起こしながら、この立教新座で学んでいきましょう。
2021年6月7日
例えば、今私たちは息を吸って吐いています。呼吸をしていますが、呼吸をしなければ生きていくことができません。「息」は、ギリシャ語では「プネウマ」、ヘブライ語では「ルアッハ」と言い、「霊」とも訳されるとても大切なものです。私たちは、呼吸を今しているわけです。5分前のためでも5分後のためでもなく、今「生きる」ためにしています。そして、息を吸って酸素をとっていますが、酸素は、植物の光合成がなければ供給されません。すなわち、植物がなければ酸素がなく私たちは生きていけませんが、雨があったり、土があったり、虫がいたり、小鳥たちがいたり、猫がいたり、そのように私たちの周りに、今、物や生き物がなければ、私たちは生きていけないわけです。これは学校生活でも同じことが言えるでしょう。人も物も生き物もそのように互いにつながりをもつことの中で生きています。そして、今週は、教会では、地球環境のためにお祈りをしますが、地球環境保護という視点でいえば、SDGs(エスディージーズ)、これは、持続可能な開発目標であって、2015年9月の国連サミットで採択された、2030年に向けた具体的行動指針です。私たちはつながりの中で生きているという、とってもシンプルなことが言われていると思いますし、持続可能な開発によって地球環境を守らなければならないということは、この創世記の記述からも出てくるわけです。
さて、本日の聖書の箇所を見たいと思います。まず、悪魔からの誘惑を受け、アダムとエバが「食べてはいけない」と言われた木の実を取って食べた直後、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とあります。「風の吹くころ」というのは、ヘブライ語では、「霊」とか「息」とか訳されるとても大切な言葉「ルアッハ」が使われています。ですから、ここは、神様の吐息、息吹、といったものが聞こえてきたとき、ということになりますから、神様がそこにいるということになると思います。しかし、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れる」のです。なんとも悲しい光景です。アダムと女は、神様とのつながりを断ち、そして、人、生き物、物とのつながりをも断っていきます。
私たちは、どうしても、悪魔から誘惑を受けますし、神様の御心に背いてしまうようなことを、図らずもやってしまったということがあると思います。思わず、怒りがわいてくるとか、相手の罪が許せないと思ってしまうときがあると思います。ここも悪いのですが、本質的な悪ではなくて、「わたしはあなたに、罪を犯しました。ごめんなさい」と謝ればよかっただけなのに、それをせずにごまかそうとして隠れてしまいます。ここに、傲慢、自分中心、エゴイズムといわれている悪の場面が現れます。隠れた場所は、非常に狭い、その人の囚われた自分だけの世界です。例えば、今まで、人間だけがよければいいと考えて地球環境を開発してきたことは、やっぱり狭い人間中心主義の悪であって、SDGsとは、そのような人間の傲慢を見つめ直していく取り組みであると思います。どうぞ私たちは一人で生きているのではない、つながりの中で生きているということを思い起こしながら、この立教新座で学んでいきましょう。
2021年6月7日
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