2021/06/14 (MON)

チャプレンより聖書のことば

目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
(コリントの信徒への手紙二第5章7~10節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
パウロはコリントの信徒への手紙二で復活のことを長々と書いています。そのなかで、キリストにある人は信仰によって生きることと、最終的にはこの世にある一時的なものに望みと喜びを置かないことを確認しています。

わたしたち人間がこの世で一番執着するものの一つは自分たちの体です。その体がどう見えるか、どこまで健康であるか、その体が何年もつか、どんな痛みがあるかないかなどです。そして、その体が病気になれば、医療が進んでいる今では大変な治療や手術をしながらも、少しでもその体を長く生かせようとする人が多くいます。心の病に数多くの人々が非常に苦しんでいるなかでも、わたしたち人間は体がウイルスにかかることを恐れ、その対応策に重きを置きます。体への執着は計り知れないものです。

そこで、キリストの弟子である人々は、本来、そのような執着を持つべきではないことがパウロの言葉を読んでも明らかです。目に見えるもののみに頼りながら歩む人は、どうしても問題に直面したときに、その先のことが見えないのです。そして、何より、死というものを超えて何かの希望を持つこともできません。目に見えるものに頼る人は、最終的には必ず死というものと向き合うことになります。そのときに、パウロが言うような心強さと喜びを持つことができるのでしょうか? キリストの復活を信じ、復活に望みを置く人はこの世でどんなことがあっても最終的には揺らぐことのない信仰と希望と喜びを持つことができます。そして、最後にキリストがすべての人をめいめい裁く日が来ることも信じ、正義とこの世の行いの報いがあることをも信じるので、善を行う人にとっては慰めとなり、悪を行う人にとっては神や宗教を嫌う原因になります。この世で正義がなされないことや悪が取り扱われないで生きていかないといけないことに希望を失う人もいますが、もし、パウロの書き残したことが真実であるならば、キリスト・イエスが最終的にはすべてを正し、悪を裁き、善を祝福し、この世で失うことのない希望と喜びを持つことができます。これが、キリスト者にとって信仰によって生きることです。

2021年6月14日

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