2021/07/05 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
(マルコによる福音書第6章3節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
イエス様の故郷の人々はイエス様を人間的な基準で決め付けてしまっているから、「あれはマリアのところの息子だ」「ただの大工のせがれだ」、そんなふうにしか見ることができませんでした。イエス様そのものに出会えないのです。なんて残念なことかと思います。私たちは、イエス様に会いたいって思っています。もし、イエス様と直接会って、二人っきりでお食事でもできたら、聞きたいことを聞き、わかってほしいことを話せたら、どんなに素晴らしいかと夢見ます。この故郷の人たちは、イエス様に会っています。なのにイエス様につまずきます。なぜか。「あれはマリアのところの息子だ」「ただの大工のせがれだ」、そんなふうにしか見ることができないからです。それは、その相手の背後にある神様と出会えていないということです。目の前にいてもその人の本質とは出会えないということです。

私たちには生きていくと必ず出会いというものがあります。神様は、人と人をきちんと繋げて、ちゃんと「私はあなたを愛している」と伝えてくださるのです。だから、私にも相手にも悪いところがあるかもしれませんが、その背後に何か、神様の働きというか、神様の愛が隠されていると思います。この人は大工の息子じゃないかとか、マリアのところの息子だろうとかいう見方を超えて、ちゃんと相手の内にある神様を見たいと思います。たとえそういう風に見えていなかったとしても、でも、これは神さまが会わせてくれた人だと信じて、その人の背後にある神様の働きを見ていきたいと思います。そして、それを感じるには実は自分自身に対しても自分の背後で働く神様の愛を感じることが必要ではないかと思います。今日の聖書は、そんなことを語っていて、しかし、これは大切なことで、これによって世界が変わっていくということをイエス様は私たちに伝えているのだと思います。

教室で、部活動で、家庭で、あるいは、何かの集まりに行ったとき、見た目ではなくて、神様が出会わせてくれた人だという目で、出会う人々の背後で働く神様に目を向けていきたいと思います。神様は、間違いなく、すべての人々の内にあって、その人々を守り、支えてくださいます。

出会いの中で、私たちには「あの人は無理!」とか「こんな私じゃだめ!」とか、そういう思いがどうしても出てきます。でも、それを単に否定するのではなくて、その思いを受け止めて、実はその思いこそが神が出会わせてくれた人、あるいは私と向き合うための大切な恵みだと、そう信じて、私の、そしてその人の背後で働く神様の愛に触れていきたいと思います。私たちは、そのような働きを通じて、多くの人々に神様の愛を伝えていきたいと思います。なぜなら、誰でも、本当はそれを待っていると思うからです。

2021年7月5日

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