2021/07/12 (MON)

チャプレンより聖書のことば

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
(マルコによる福音書第6章7~13節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
イエス・キリストはそれまでの預言者と言われていた人とは大きく異なることをしました。彼は、自分の弟子たちを呼び寄せ、彼らに権力を与え、送り出しました。なんのために権力を与えたかと言いますと、それは、人々の魂と体をいやすための権力でした。イエスの働きはそれまでのユダヤ人のラビ(先生)たちとは違って、積極的に人々に接し、彼らをいやしたり、教えたりすることでした。また、何よりも「悔い改めさせるため」の宣教でした。

イエスの働きを見ると、神の愛がすべての人に、イエスとその弟子たちを通して積極的に与えられていることが見えますが、その愛はわたしたちを変えるための愛でもあります。自分の罪が許されることや自分の病気がいやされることは、自分を変えることでもあります。わたしたちの今の状態は救いが必要な状態であるということが、イエスの働きの大前提となっています。私たちが変わるからこそ自分たちの罪とその罪がもたらす苦しみから救われるのです。ですから、悔い改めというのは、神の愛がわたしたちに与えられる条件でもなければ、わたしたちが救われるための条件でもありません。悔い改めというのは、神の恵みと愛がわたしたちを変えていくプロセスなのです。

しかし、冒頭の聖書の箇所にもある通り、弟子たちの宣教と神の愛を拒絶する人々がいます。弟子たちを迎え入れず、聞く耳を持たない人、悔い改めることを拒否する人というのは、神の愛そのものを拒否していると聖書では教えています。そのようなところでは、弟子たちは「彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とイエスに命じられます。罪から救われたいのであれば、私たちは自分が変えられていくための勇気を持たなくてはなりませんし、イエスとその弟子たちが伝える真理を聞く耳を持たなくてはなりません。人間の愛も同じですが、私たちがそれを受け入れるのであれば、その愛によって私たちは変えられるのです。イエスは私たちを積極的に呼びだし、私たちに積極的に語り掛け、いやしと愛を与えようとします。それが聖書であり、教会であり、キリスト教の病院や学校でもあります。しかし、それには私たちは、抱えている罪の状態から私たちを救い出し、心も身体も変えていくことになります。

2021年7月12日

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