2022/01/17 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
(ヨハネによる福音書第2章7~10節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
新しい年が始まりました。心新たに、2022年を迎えたいと思います。今週の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の最初のところ、カナの婚礼で、イエスが、水をぶどう酒に変えるという奇跡の話です。水をぶどう酒に変えるということは、ちょっと実利的すぎるというか、手品みたいでイエスの奇跡にしては何だかぱっとしないなあと思う人もいるかもしれませんが、それはちょっと違います。病気を治すとか、死者を生き返らせるなどは、さすがイエスという感じで、水をぶどう酒に変えるなんていうのは序の口だと思うとしたら間違いです。

やっぱりヨハネによる福音書は、このカナの婚礼の物語を一番最初に示して、神の国の本質を伝えてくれていると思います。病気が治ることも素晴らしいし、死者が生き返るのも有意義なことですけど、ちょっと個人的な出来事です。この「水をぶどう酒に変える」という出来事の本質は、もはやもうだめだと思っているこの世界、もう救いようがないとあきらめてしまった私たちの現実を、あっという間に神の国の喜びの宴に変えることのできるイエスの力、神の愛のわざの秘密が過不足なく描かれているからです。

私たちの現実には「もうこれは救われないんじゃないか、おしまいなんじゃないか」というようなことが起こります。しかし、そこに私たちの主イエスが関わって、私たちが、「いいや、救われる、おしまいじゃない」という信頼をもってそこに共にあるならば、あっという間にそこが喜びの宴に変わっていくということです。私たちは、このコロナ禍でそれを何度も経験しましたが、いま、この立教新座中高での交わりのなかで、カナの婚礼と同じ喜びの宴が実現しているのです。心ふさぐ闇のとき、もう終わりだというようなときを、経験されたことがあるかもしれません。その試練のときには、今日またこのように皆で一緒に楽しく過ごせるなんて全く想像していなかったかもしれません。つらいときは、落ち込んでつらい思いで、ただ暗闇の中でうつむいているだけです。しかし、じつは、この暗闇にこそイエスが関わってきました。関わって奇跡を起こしてきました。花婿のように気づかなくても、私たちが気づかないところで、イエスは奇跡を巻き起こします。だから、私たちはここにいて、カナの婚礼のように、感謝の宴を開いてもいいんです。イエスはどんな絶望的状況でもそこを喜びの宴に変えることができるのです。その宴はいうまでもなく、天上の宴の先取りです。たとえこの世界がもう終わりだというようなときでも、私たちの世界を天上の宴にまで高めることができる、そのイエスを私たちは信じながら、新しい年も心豊かにすごしていきたいと思います。

2022年1月17日

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