2022/01/24 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書第4章16~22節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
イエスは洗礼を受けた後、イスラエルの北にあるガリラヤ地方のナザレという町に行きました。そこで育ったイエスは、自分をよく知っている人たちに新しくラビ(先生)として聖書から教えます。イエスの伝えた福音は彼らにとって非常に驚くものでした。聖ルカによる福音書第4章の続きを読むと、ナザレの人々はイエスを崖から突き落として殺そうとしたのです。

イエスの言ったことは、彼らにとって受け入れ難いものでありましたが、それは、彼らがよく知っていたからこそ難しかったのだと思います。主の霊がイエスの上におられること、そしてイエスが神の国を実現する人であることは彼らにとって信じられないことでした。「あいつはヨセフの子じゃないか」と言う声もあがり、イエスがそんなにすごいことをするはずがないと彼らは思ったのです。

イザヤ書にある預言はユダヤ人たちにとって非常に大切なものでありました。再び、自分たちをローマの支配から自由にしてくれるメシア(救世主)が来る預言であり、そのメシアはエルサレムを中心に神の国を建てていくということを期待していました。実際に、イエスは人々の病気を癒したのですが、政治的な圧迫より、その原因となる心の罪からの自由を与えようとしたのです。今の時代も変わらないことですが、人間は目の前の政治体制、経済的問題、戦争などの解決を望みますが、その問題を引き起こしている、心の中の罪の問題からの解決と救いを求めることはいたって少数派です。イエスの十字架は人間を罪から解放し、人間がお互いを赦し合い、愛する道をしめしたものですが、多くの人間はいまだにすべての問題の根底にある罪からの救いを求めていません。教会では無料で罪の赦しのための洗礼を授けているにもかかわらず、殆どの人はそれを求めてもいないところは2000年前でも今でも変わりません。目先にあるお金の問題などについてであれば、すぐに人は興味を持ちますが、自分の心の中の罪を赦し、神と人間との関係を変えていく努力をする人は少ないのです。ナザレの人々のように、イエスの与えようとしている救いに興味を持たない人が多いのです。人間の思いが目先の問題よりも根底にある問題に向けられない限り、戦争やブラック企業、偽りや殺人が止まないことでしょう。

2022年1月24日

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