2022/01/31 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか」
(ルカによる福音書第4章20~22節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
「この人はヨセフの子ではないか」とイエスのことを言いました。「ヨセフの子」というこの言葉の裏には、この男は、大工の息子ではないか、小さい時から知っている。母親のことも知っている、その兄弟や姉妹も知っている。たいした身分でもない。金持ちでもない。地位も肩書きもない。何を偉そうなことを言っているのだという気持ちがはっきりと出ています。

キリスト教では、イエスのことを「神の子」と信じます。私たちのために、神がこの世に遣わされた神の独り子であると信じています。しかし、この聖書の場面である、イエスの前にいる故郷ナザレの人々には「ヨセフの子」としか見ることができませんでした。故郷ナザレの人々には、イエスは、主の霊がつねに共にあり、貧しい人々に福音を告げ知らせるために油を注がれた人であるとは、とうてい信じられませんでした。イエスは、この時以来、約3年間、このことを叫び続けられました。人々に誤解され、また、ある時には殺されそうになりました。そして、神が定められた時、神が定められた所で、その遣わされた者として使命を果たす「時」が来ました。

そこには十字架の上で苦しみもだえる姿がありました。十字架の上で、主イエスは叫びました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカによる福音書第23章46節)。そして、最後に「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られた(ヨハネによる福音書第19章30節)。そこに実現し、成し遂げられたことの具体的な内容は、貧しい者に良い知らせを知らせることでした。弱い者、醜い者、虐げられている者、寂しい者、地位も名誉もなく、見捨てられている者、そのような最も貧しい者に、「良い知らせ」すなわち「救い」をもたらすということでした。

一人ひとりは、ほんとに色々なつらい思いを抱えて生きています。勉強のことでどれほど苦しい思いをしているか。人間関係でどれほど悩んでいるか。しかし、そんな悪の力に飲み込まれそうな一人ひとりでも、立教新座中高に集い、イエスが共にいてくださるから大丈夫だと安心し、共に支え合う仲間が見つかります。

そこは匿名の世界ではないんです。一人ひとりがそこにいて、そして一つになっているのです。確かに、隣に座っている人が昨日どれほど辛かったかとか、過去にどれほど苦しんだかとかは、知らないと思います。けれども私たちは知っています。神が私たちをここに集めてくださったこと、すべての悪を背負って滅ぼしたイエス様が、一人ひとりを救ってくださって、すべての人を一つにしてくれるということ、これは喜びです。どうか、祈りのなかで、自分だけでなく、友もそこにいるということも感じ取ってください。

2022年1月31日

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