2022/02/14 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」
(ルカによる福音書第6章20~22節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
今週の聖書の言葉は、「山上の垂訓」と言われる、大切な教えです。そして、イエスの前にいる人々は、心から疲れはてた、悩みに苦しむ、群衆です。 精神的にも、肉体的にも、傷つき、困窮しきった人々に、まっすぐに向き合って、生ける、真理の言葉を語られました。「山上の垂訓」で、四つの幸いをイエスが述べています。ここを見ると、一番心を打たれるのは、イエスがどれだけ貧しい人々とともにおられたか、貧しい人、あるいは飢えている人、泣いている人、その人たちの側に、いかにイエスが立っているのか、という、徹底したイエスの態度、心の置き場所です。

私を含めて多くの人々は、貧しさ、いろんな意味での飢え、泣かなければならない状況とか、あるいは人々の、憎まれる、と言ったらオーバーかもしれないけれど、人間関係がうまくいかないのです。そのような苦しみで、多くの人が苦しんでいるのはまちがいない、そして、一旦そのような苦しみにとらわれたらその苦しみから逃れることができなくなります。例えば、仲間等の関係でどんなに苦しいか、辛いか、そういう話を聞くたびに、やるせない気持ちになりますが、イエスがその多くの人々の立場に立っているからこそ、今週の聖書の箇所には、やはり意味があります。貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものだ、という、イエスがいるからこそ、あるいはイエスの恵みを感じるからこそ、貧しい人々が幸いを見ることができる。心の飢え、また実際上、食べ物がない飢え、まあ、さまざまな飢えがあるでしょうが、イエス様の恵みに触れてこそ、この飢えから満たされる、そのような幸いに預かっていける、そのようなチャンネルが私たちに開かれている、それこそまさに良き知らせだと思います。キリスト教の、おそらく最大の恵みはイエスの復活と、そして私たちに聖霊が与えられているということですが、それらすべて、この世の幸せと、実際上ほとんど関係がないのです。貧しさの中で苦しさの中で主の復活に出会って、あるいは聖霊をいただいて、慰めや、力や、そしてこの、幸いということを得ることができるんだろうと思います。イエスがいなければ、貧しい人々は不幸のままだし、飢えている人々はやはり不幸のままだと思います。でも、イエスが貧しい人の側に立たれて、その人々のために命を捧げて、そして貧しい人のために復活されたからこそ、私たちは幸いである、ということがいえます。だからこそ、私たちが苦しんでいる人の悩みを聞いた時に、アドバイスをしたり、共に祈ったりすることができるのだと思います。そして、すぐではないですけど、1年2年かかることも多いですけど、やはり少しずつキリストに触れて、神の恵みに触れて、この世におけるさまざまな飢えをなおもかかえながら、生活が少しずつ変わっていく、ということは、多くの人々にとって事実だと思います。この事実を私たちがかみしめるとともに、私たちもこのイエスに従っていく気持ちを新たにしていきたいと思います。

2022年2月14日

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