2022/03/14 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
(ルカによる福音書第13章8~9節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 石田雅嗣
因果応報の考え方は、今の日本でもそうですけれども、当時のユダヤ教においてもよく親しまれていた考え方です。これに対して、イエス様はけっしてそうではないと語られて、実のならないいちじくの木のたとえをされます。ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、三年の間、その実がなりはしないかと期待してこの木のところに通い詰めます。ところがついにこのいちじくの木は実をつけませんでした。怒ったこの主人は、このぶどう園を管理していた園丁に向かって言います、「こんな実を結ばないいちじくの木を植えたままにしておくのは土地の無駄だ。さっさと切り倒してしまえ」と。

けれどもその時、このぶどう園の管理をゆだねられている園丁は、このいちじくの木をかばうようにして言うのです。これが、今週の聖書のみ言葉です。実りを生まない私たちいちじくの木、しかしその私たちをかばい、「もう一年待ってください」とおっしゃってくださいます。この園丁は言うのです。「もう一度このいちじくの木に機会を与えてやってください。チャンスを与えてやってください。木の周りを掘って、肥料を与えたら、今度は実を実らせるかもしれません。与えられた猶予期間の間、私が全力を尽くし、あらゆる手立てを講じてみますから」と語られます。

どうでしょうか。わたしは、本当に、イエスのたとえ話は、いつも優しくて、愛の香りを漂わせる、本当に素晴らしい話であるなと思います。このいちじくの木、本当に良かったと思います。園丁によって命を救われたわけです。もう切り倒されてもしょうがない、どう考えても救いようがないというような木を、この園丁は命乞いをして守って、ちゃんと周りを掘って肥やしをやろうとします。一本たりとも切らせまいとする園丁の熱い思いがあふれています。もし、それでもダメなら・・・と、この園丁は一応言いますけれども、ダメなはずがないのです。この園丁はイエスでしょうから、イエスがちゃんとしてくださるのだから、ダメになるはずがないのです。翌年、必ずやたわわにいちじくの実が実って、あぁ、切らないで良かった、ということになるのでしょう。このように、因果応報の考え方に基づく <実を結ばない木は切り倒してしまえ> という思いの先に、キリスト教の <もう、どうがんばっても実なんか結べませんと思っていたのに、神さまがちゃんと世話をして実を結ばせてくれる> という喜びの世界が待っているということに信頼してほしいのです。ここが、キリスト教の一番素敵なところです。そしてイエスを知るわたしたちは因果応報の考え方にとどまっていてはいけないということも示しています。自分ではもうダメだと思い、周りも切り倒せと言っていても、それでもなお、園丁が現れて、「いいや、あと一年待ってくれ。私が穴を掘って、ちゃんと肥やしをやるから。そうすれば必ず素晴らしい実を結ぶから」と言ってくださるし、成果をちゃんと出してくださるということです。こういう例えに励まされて、私たちは、どうにも実を結びそうにない自分に絶望することなく、必ず来る実りの日を待ち続けながら、思いを新たに新しい年度を迎えていきたいと思います。

2022年3月14日

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