2022/04/18 (MON)

チャプレンより聖書のことば

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネによる福音書第20章19~20節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」、とヨハネによる福音書の記者は復活のイエスと会った弟子たちの反応を短い言葉で記述していますが、復活のイエスと再会するまでの間、十字架上のイエスのご受難を目撃した弟子たちはどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。受難の記述を読み返しますと、イエスの逮捕の際には弟子たちの殆どが師を見捨てて逃げ去っています。後世イエスの一番弟子のように見られるペトロに至っては師に対して絶対の忠誠を誓約したにもかかわらず、イエスとの関わり合いを三度も否定する有り様です。イエスの宣教の旅の途上、師に近づこうとする者たちに対しては城壁のごとく立ち塞がり、時に特権意識すら感じさせるほどだった弟子たちの強気の姿勢は、イエスの危機において全く発揮されることはありませんでした。はっきり言ってしまえば、イエスの弟子たちは揃いもそろって腰抜けの裏切り者だったと言えますし、その点では堂々とイエスを裏切ったイスカリオテのユダの方がある意味潔かったと言えるかもしれません。忠誠を誓約したにもかかわらず見捨てて逃げた。不出来な自分たちを愛してくれた方を裏切ってしまった。自分自身を責める思いは彼らを酷く苦しめたことでしょう。おそらく一番つらかったのは、死んでしまったイエスには再び会って詫びることができないことかと推察します。そして皮肉にも、復活のイエスに会ったとの婦人たちの知らせは弟子たちの絶望感に追い討ちをかけたはずです。本当にイエスは神の子だった。自分たちは人間ではなく神を裏切ったのだとの衝撃は彼らにこの上ない絶望感を与えたでしょうし、神からの裏切りに対する罰を仲間と待つしかないとの思いが彼らを引き籠らせていたのだと考えます。復活のイエスが彼らの真ん中に立たれた瞬間、最後の時が来たと覚悟させたのではないかと想像します。

「あなたがたに平和があるように」、それは祝福の挨拶であり、神からの赦しの宣言です。赦されるはずがない背信行為を赦されたばかりでなく、ユダヤ人にとっては最高の祝福の言葉を贈られました。「主を見て喜んだ」には絶望が取り去られ、最高の喜びへと転化したことが籠められています。さらに赦された喜びは危機において逃げ出した弟子たちを変え、未知の土地へ旅立ち、迫害を恐れない宣教者へと成長させました。赦される体験、愛されている実感とは人の生き方を変えてしまうほど衝撃的な出来事、奇跡なのだと言えます。

「あなたがたを遣わす」。イエスは神に愛される実感をすべての人間に体験して欲しいと願われ、共に神に愛される者として私たちがお互いに赦し合うことを託されています。

2022年4月18日

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