2022/04/25 (MON)

チャプレンより聖書のことば

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
(ヨハネによる福音書第20章24~25節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
イエス・キリストが復活されたことは、イエスの弟子たちにとって決して受け入れやすい事実ではありませんでした。ディディモと呼ばれるトマスだけではなく、多くの弟子たちがイエスの復活をすぐに受け入れることはできませんでした。ルカによる福音書第24章でも、イエスの弟子である二人が、復活の話を聞いていたにも関わらず、それを信じることなくエルサレムを離れてエマオに歩いている途中で次のように話していました。「『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。』」(19~21節)イエスが死んでしまったが故に、イエスはもはや救い主であるメシアとして信じることができなくなり、「預言者」と呼んでいます。また、イエスが彼らをローマの支配から「解放してくださると望みをかけてい」たことが分かります。イエスが死んだことによって、弟子たちの希望も信仰もすべて失われたとことが福音書のなかではっきりと見えるのです。しかし、トマスの場合も、エマオに向かっていた二人の弟子の場合も、実際に復活したイエスに直面することで彼らの考えも信仰もすべて一瞬にして変わったのです。このような変化はなんらかの集団錯覚、または集団陰謀によるものだとは非常に考えがたいです。しかも、イエスが逮捕されたときに一人残らず逃げてしまった弟子たち、また、復活したことを聞いても信じなかったその弟子たちは、生きておられたイエスと再び直面してから、全世界に広がりイベリア半島、アフリカ大陸、ローマとギリシア、中近東とインドにまで、イエスの復活のことを多くの迫害と苦しみに耐えながらも伝えたのです。

絶望していたイエスの弟子たち数百人が一瞬にして考えと信仰を改め、確信をもってイエスの復活を伝え始めた事実を説明するためには、イエスが実際に復活したということを信じることが一番わかりやすいかもしれません。イエス・キリストの復活を信じないのであれば、世界の歴史を変えたイエスの弟子たちの働きと教えのすべてが偽りであるということになります。富を得るためや、罰を免れるためであれば、このような偽りを作り出すことは考えられますが、苦しみや迫害と殉教を得るためにこのような偽りを最後まで貫く人が数百人いることは、とても考えにくいのです。

2022年4月25日

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