2022/05/02 (MON)

チャプレンより聖書のことば

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
(ヨハネによる福音書第20章27節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
復活のイエスが最初に弟子たちに姿を現された時、トマスだけが仲間と一緒にいませんでした。彼が仲間の元へ戻ると、仲間たちは「主を見た」と語ります。仲間たちの表情はイエスの受難を目撃した時からの絶望感に覆われた暗い表情から、「喜び」に満ちた笑顔へと一転しています。イエスからの「平和があるように」との祝福の言葉、神からの赦しの宣言が仲間たちを変えたのだとトマスは気づかされたでしょう。自分の中に今も残り続ける絶望感を一掃して笑顔に変えることができるとすれば、死んだはずのイエスに再会して赦して頂く以外に道はない。仲間たちは本当に復活したイエスと再会したのだと、トマスは直感したと想像します。と同時に彼は自分だけが会っていない、赦して貰っていない、除け者にされたと思い、寂しく思ったことでしょう。イエスの手の釘跡に指を入れ、わき腹の傷跡に手を入れなければ決して信じないとトマスは仲間に言っていますが、除け者になった寂しさゆえの無理難題であり、言わば駄々をこねたものと考えます。そして復活のイエスはこの言葉を聞いていたかのように再び姿を現され、彼の要求に全て応えます。

人は除け者にされたと感じると、普段理性的に振舞う模範的な人でも感情的になります。「私は聞いていない」、「知らない、勝手にすれば」と頑なな姿勢をとった挙句、一切の妥協どころか交渉すら拒否するようになることも珍しくありません。結果、仲間を遠ざけて孤立から孤独の道へと歩むこともあります。悪意のない、また意図しない場合であっても、除け者にする、除け者にされるという結果は人の心に大きな傷を負わせ、人生を狂わせてしまう可能性すらあると言えます。そして神は私たちの誰一人として除け者になることを望まれていないということが、復活のイエスがトマスに現れて彼の無理難題に応えたことから明らかです。福音記者ヨハネはイエスのことを生きた神の言葉と表現していますが、イエスの言動は神の意志を人の耳に聞こえさせ、また目に見えるようにしてくださっていると言えます。すなわち主イエスがトマスを訪ねてその心を解きほぐしたように、私たちも除け者にされている人を訪ね、あなたは孤独ではないと知らせるよう模範を示されたのでしょう。

遠く離れていても連絡が容易にとれる時代になりましたが、それだからこそ除け者になる人を出さないようにする、また除け者にされたと思う人に対してはその誤解を解く務めが私たちには託されています。

2022年5月2日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。