2022/05/30 (MON)

チャプレンより聖書のことば

「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」
(マルコによる福音書第16章19~20節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
ルカによる福音書の続編である使徒言行録では、イエスは天に上げられ、雲に覆われて見えなくなったと伝えています。福音記者が伝えるイエスの昇天の出来事は空へと昇っていき、姿が見えなくなったという点で共通しており、後世の読者である私たちは空の彼方へと昇って行かれるイエスの姿をイメージすることができます。同時にイエスが向かわれた天=天国=神の国という図式から、神の国は私たちには手の届かない世界と考え、他民族の神話が語る死後の世界や他宗教が説く極楽世界のイメージと重ねられて、イエスが語られた神の国も私たちの死後に赴く楽園と理解しがちです。そして神の右の座に着かれたイエスも私たちからは遠い存在になったと思い込み、イエスがお迎えに来られる時=自分の死ぬ時まではもうお会いできないと信じている人も少なくありません。しかしながら、マルコによる福音書は昇天後のイエスが宣教に出かけた弟子たちと共に働かれていることを伝えていますし、マタイによる福音書では復活のイエスが弟子たちを派遣するにあたり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と宣言されているなど、昇天後のイエスが私たちには手の届かない別世界に行かれた訳ではないということが分かります。

では、イエスが昇られたという天=神の国とはいったい何処にあるのでしょうか?
イエスの宣教の第一声は「天の国は近づいた」(マタイ4:17)、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)でした。また、「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)とも語られたほか、イエスの天の国や神の国のたとえは当時の聴衆にとって身近な日常の題材が多く、これらのことはイエスが教えられた天の国、神の国は私たちにとって手の届かない別世界や死後の世界ではなく、私たちがいま生きている現実の世界であることを示しています。

イエスが昇られた天が、私たちが生きるこの世界であったからこそイエスは昇天後も弟子たちと共に働くことが可能であったし、また世の終わりまで私たちと共にいてくださることも可能となるのです。神の国は近づいている。イエスがこの世に来られたことで神の国が別世界ではなく、身近なものとなり始めたということです。私たちの間にあるということは、私たちが神のみ旨にかなう交わりを行った時、そこに神の国が現れるということです。イエスが語られ、実践して見せてくださった愛の交わりとは苦しむ人、悲しむ人を放って置かないこと。お腹をすかせている人がいたら、食事を分かち合うこと。理不尽な思いをしている人がいたら、その人と共に抗うことです。簡単そうに思えますが、これらが行われる世界は当に「天国」です。一方行われない世界は「地獄」で、この世界に実在します。

2022年5月30日

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