2022/06/06 (MON)

チャプレンより聖書のことば

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録第2章1~4節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
聖書の神は多神教の神と大きく違うところがあります。多神教の神は基本的にはある特定の地域や民族と繋がっており、特定の力とご利益などが付いてきます。聖書の一神教の神は全世界を創造した神であり、世界のすべての人を一つの命と平和の道に歩ませようとしています。そもそも、同じ道を歩まなければ世界に平和を実現させることができないということなのです。ユダヤ教の五旬祭の日には世界中から集まってきたユダヤ人や聖書の神を信じる異邦人(ユダヤ人ではない人々)がエルサレムにいました。その人達を一つにまとめる神の霊が訪れ、その霊の力によって各国の言語でイエスの弟子たちがイエスについての福音を述べ伝えたのです。

この時に世界のすべての国へと広がる「教会」が誕生しました。そして、今では日曜日の朝になりますと、一斉に各国の言語でこの教会が礼拝をします。その状況がまさに2000年近く前の五旬祭で預言されたことです。詩編67編で祈られていることでもあります。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。」(6節)すべての国が一つの神を崇め、心を一つにして祈るためには、一つの神のみが讃えられるようにならなければなりません。ただし、キリスト教ではすべての民や民族がそれぞれの言語や文化の中で同じ神を礼拝することになります。これはユダヤ教やイスラム教といったような一神教と少し異なる点になります。ユダヤ教は一つの民族と文化が一つの言語でささげることが基本になっています。そして、イスラム教の礼拝ではアラビア語以外の言語でクルアーンを読むことが禁じられています。さまざまな理由で多くの宗教にはそのような特定の民族や言語との必然的な結び付きがありますが、イエスの教会はそうではありません。聖書は世界のほとんどの言語に訳されていますし、世界のほとんどの国と言語でイエス・キリストのことが毎週の日曜日に礼拝でたたえられています。イエスが最後に残していったものが教会であり、イエスの教会だからこそすべての言語と民族を個々のアイデンティティを失くさずに包み込むことができるのではないかと思います。

2022年6月6日

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