イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
(マルコによる福音書第10章13~16節)
立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
憤るイエス、福音書では珍しい表現です。イエスを表現した言葉としてはおそらく最大級の怒りを感じさせます。古代世界において子供の誕生は一族や共同体の繫栄を約束する神の恵みとしてその夫婦だけでなく、一族や共同体の全員で祝う出来事でもありました。しかしながら、それほどまでに誕生を歓迎された子供であるのにもかかわらず、ある程度親の手がかからない位に成長しますと一転して邪魔者扱いされるようになります。当時は生まれた子供が無事に成長するのが困難であったこともあり、子沢山になりがちでした。そのため一人一人の子供に手をかけることが大変であったこと等も考えられますが、それ以上に大半の子供たちが汚かったためだと思われます。乾燥する気候風土では水が貴重ということもあってか、この地域の人々は頻繁に沐浴することはしません。食事前の手洗いや帰宅時の沐浴がユダヤ教の口伝律法では定められていますが、それは衛生目的ではなく祭儀的清浄さを求めたものであり、日常的には無頓着であったようです。大人たちがそうであれば子供たちはなおさらで、子供たちの遊び場である道端には生ごみや家畜の糞尿が適切な処理をされずに放り出されていたため、転げまわって遊ぶ子供たちの手足や衣服の汚れ方は凄まじいものであったと想像されます。現代でも身形が奇麗でない人が社会的に偉いとされる人物に近寄ろうとすれば、警護役が暴力で追い払うことは珍しくありません。当時の大人たちは子供たちに近寄られるのを普通に嫌っており、弟子たちの対応も積極的に子供たちを虐待しようとした訳ではなく、イエスを糞尿の汚れから守ろうとしただけであったように想像します。しかしながらイエスは弟子たちの「普通」を見過ごすことなく叱られました。「妨げてはならない」という言葉は「遠ざけようとするな」の意味でしょう。身形が汚いからといった理由で誰かを遠ざけたり、誰かから遠ざかったりすることは人を分け隔てる行為=差別です。汚いからと子供たちを遠ざけることが出来る者は、自分勝手な理由を作って他の人たちをも遠ざけるようになるでしょう。そして遠ざけられる人たちの多くは子供たちと同様に、自分では理不尽な仕打ち=暴力に抗うことが出来ない人たちであり、それ故に神の救いを求めてやまない人たちです。イエスは、神の国は神を求める人たちのものであり、あらゆる理不尽に苦しむ人たちが救われる世界であると教えられたのです。イエスの「人権教育」の言葉は2千年の時を超えた現代の私たちにも突き刺さってきます。
2022年6月13日
2022年6月13日
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