2022/09/05 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」
(ルカによる福音書第13章22~25節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン 倉澤一太郎
「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われますと、私たちは入ることの困難さを想像しがちです。私たちは受験や就職などにおいて競争の激しさや目標達成の困難さを表す際に「狭き門」という表現をよく使いますので、そのように捉えるのは自然かもしれません。実際「狭き門」という言葉自体が、マタイによる福音書第7章の命に通じる門は狭いことに由来しており、「入ろうとしても入れない人が多い」と言われてしまえばその困難さを表しているのだと受け取ってしまいがちです。ですが、「狭い戸口から入りなさい」は「救われる者は少ないのでしょうか」の質問への応答です。人数の多少を訊かれたのであれば「多い」か「少ない」と答えるべきところですが、イエスは多いか少ないかではなく、狭い戸口から入れと教えらます。神はすべての人を救いたいと望んでおられるが、救いに到達できるかはその人次第であって、救われたいのであれば狭い戸口から入れば良いのだとイエスは答えられたのでしょう。そして「狭い戸口」とは屋敷の裏口のことだと考えます。

ルカによる福音書の読者テオフィロはローマ人で、当時の習慣では宴に招かれた客は表門、広い戸口から入るのが普通です。またローマ貴族の宴席は政治的取引の場になることもあるので招待客は厳選され、属する派閥が異なる客は衝突が生じ易くなるので招待客以外を招き入れることは厳禁でした。入りたくとも入れないとは、自分を神の招待客などと思い込んでいると入れてもらえないよとのことでしょう。入れてもらえない状況になるよりは裏口から入りなさい。宴の裏方で働く使用人として働く覚悟があるならば入れてもらえるよ。裏口はいつでも開いているし、神は働く人をいつでも募集されている。私自身がすべての人を救うために、私自身を犠牲にしてこの世界を神の国へ戻すために遣わされて来たのだ。私は、私と一緒に働く人を探しているのだとイエスは教えられています。救われたければ、救われるように自分で努力する。神の国に入りたいのであれば、この世界を神の国に戻すように自分が働く。神の救いをただ待つのではなく、救われるように自ら働くことが重要です。「狭い戸口」とは神の使用人のための裏口であり、イエスと共に働く覚悟さえあればそこから入る者には人数制限もない、最も広い神の国への正門だと教えられたのです。私たちの世界を神の国にするか地獄にするかは、私たちの働きにかかっていると言えます。

2022年9月5日

お使いのブラウザ「Internet Explorer」は閲覧推奨環境ではありません。


ウェブサイトが正しく表示されない、動作しない等の現象が起こる場合がありますのであらかじめご了承ください。
ChromeまたはEdgeブラウザのご利用をおすすめいたします。