2022/09/12 (MON)

チャプレンより聖書のことば

イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(ルカによる福音書第15章3~7節)

立教新座中学校・高等学校チャプレン べレク・スミス
百匹のうちの一匹の羊のたとえは有名なイエスのたとえです。羊飼いの話は旧約聖書の最初の書物である創世記の時からしばしば出てきます。逆に、悪い羊飼いは聖書のなかでは出てきません。羊飼いの羊との関係は他の特別なものであり、一つひとつを大切にする関係です。そのことをイエスは当時の人々にわかりやすく説明しています。しかし、このたとえ話はただ単に「迷子になった人を大切にするイエス」の話ではありません。

イエスは、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」という呼びかけを話の中に含めています。喜んで当たり前と思うかもしれませんが、この呼びかけに喜ばない人もいます。放蕩息子のたとえ話の中で、放蕩の限りを尽くした弟が悔い改め、帰ってきたとき、そのお兄さんは彼を赦さず、家に入って一緒に喜ぼうとしませんでした。見失った一匹の羊は道からそれてしまっているので、それなりに大変な人生を歩んでいる人です。そのような人に近づきたくない人も多くいます。面倒くさいと思う人も多くいます。罪人が悔い改めることを純粋に喜べない人は多くいます。どうしても、人の罪が赦せない人がいるからです。

もう一つ、この箇所でよく見落とされるところがあります。それは、イエスが最後のほうで言う「このように、悔い改める一人の罪人については」というところです。羊飼いが探しに行って連れ戻した羊は、罪を悔い改めているのです。放蕩息子のたとえも同じように、罪の悔い改めがあってから父のもとへ帰って来ます。悔い改めなくてもいい、とまで言う人はいますが、これは聖書やイエスの教えにはない考え方です。神のもとに戻るためには必ず罪の悔い改めが必要なのです。

私たち一人ひとり、自分に正直になるのであれば、自分の罪も見えるのではないでしょうか? 大きな罪がないと言える人はいるのでしょうか? その罪を悔い改めるところから救いの道が始まるのです。

2022年9月12日

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